Le dernier casino
暇潰しに点けていたテレビがちょうどクライマックスを迎えた頃、不意にそう遠くないところで固い音がした。インターホンと言う便利なものがすぐ近くにある筈で、それを知っていながらわざわざドアを叩いたのだろうか。
のそりと腰を上げた清次が重たそうな足取りでこんな常識外れな時間帯に一体何の用だと、露骨に顔を顰めてドアを押し開くと傍らに小さな人影が覗いた。既に見慣れた顔だった。
しかしながらそんなに親しい間柄でも無い。
このような時間に訪ねられる覚えも何一つないのだけれど。
思いもよらない来客に、そのまま勢いに任せて押したドアを壁にぶつけた清次の顔など窺うような様子も見せず、立ち尽くす彼女に何と声を掛けたものか。
「…生江かよ。こんな時間にどうした?」
「…清次」
地獄の底から這い出て来たような生江の声は非道く掠れていた。
それはさて置きこの女、どうやら何か面倒事を持ち込んだな。
深夜と呼ばれる時間もとっくに過ぎているというのにも関わらず、ふらっと姿を現す辺りからして大方外れと言う訳でも無いだろう。
しかしその腹を探る前に先手を打たれた。
「実は頼みがあって」
「訊くだけ訊いてやるよ。取り敢えず上がったらどうだ?」
「ありがとう」
お世辞にも綺麗とは言えない部屋へ女性を招き入れるのはどうにも躊躇われたが渋々ながらそれを承諾したのは別に清次の人格が出来ているからでは無く、自身よりも幾分か小さな生江の背後から覗いた愛機であるエボWが水滴を弾いていたからだ。
生江の足元はしっとりと夜に濡れていた。
遠慮がちにリビングを跨いだ生江へ洗濯済みの柔らかいフェイスタオルを投げ渡すと首尾よく受け取った彼女がそれを掌で持て余したままソファへと座り込んだ。
使えと渡したものだがどうやらそれは全く通じていないらしい。
「コーヒーで良いか?」
「要らないわ。それより訊いて欲しい事があるんだけど」
「なんだよ」
面倒事はお断りだ。
「家を出ることにしたの」
「…は?」
「学生の家出と一緒にしないでよ。親族とは縁を切るつもりなんだから」
「いきなり過ぎやしねぇか?何があったってんだよ。律儀なお前がこんな時間に訪ねて来るくらいなんだから余程の事情なんだろうけど」
「まぁ諸事情ってヤツよ」
「お前な、ここまで言っておいてそりゃあねぇだろ…」
「言いたくないんだもの」
「警察の取り調べでも同じ事を言うつもりか?」
「生憎、警察にお世話になるような程大した事じゃないわ。私の単なる我儘なのは分かってるのよ」
「だからそれを訊かせろって。そこが一番重要なところじゃねぇか」
それきり押し黙った生江は是が非でも諸事情とやらを話さないつもりか、大袈裟に肩で息を吐くとその背を今度こそ深く沈めた。
まあいい。御大層な事情を聞き出したところで自分に出来る事など恐らくたかが知れている。
そんな事は鼻から承知だが、それより何より問題なのは彼女がよりによって自分を訪ねた理由である。
今の短調な内容だけを報告するのならば効率を選ぶ彼女はわざわざこんな真似をしたりしないだろう。
しかし泊めてくれだとかそう言った類の雰囲気を見せるでも無いのがまた妙に不自然だった。
正直に言って嫌な予感しかしない。
明らかに不満そうな表情を変えずに、それでも生江はややあってゆっくりと口を開いた。
「どこぞの御曹司様からご丁寧な縁談を持ち込まれたのよ」
「…は?」
「もうそろそろ家庭を持つべきだとか云々ですって。全く冗談にもなってないのに」
祝福の言葉は言えなかった。
己の中の若さ故の幼い感情がそれに歯止めを掛けてしまったからだ。
「御曹司でも嫌なのかよ。贅沢だな」
「そうね、きっと欲深い人間なんだわ。文句のつけどころの無い文武両道な紳士が花束を抱えて跪いても、無愛想で口下手で全く見向きもしてくれないような男の為に逃げ出して来たんだもの」
あなたのことを愛しているから。
密かに張った予防線を悟られないように、生江は皆までは言わなかった。言えなかった。
「本当に、馬鹿だなお前」
「何よその反応。あのですね、これ一世一代の告白なんだけど」
「知ってるよ」
「は?」
「そんな事とっくの昔から俺は知ってたぜ」
こちらの杞憂を知ってか知らずかそんな事をのたまった。
「…ああそう。頭の悪い清次の事だから言葉にしても気付かないと思ってたけれど、それは些か驚いたわ」
「失礼な言い回しだな」
「それはまあいいのよ。問題はそこじゃなくて」
「お前まさか、俺にご両親を説得しろとか言うんじゃないだろうな」
「そんなの無理に決まってるでしょう?自分で出来るとか思ってるわけ」
「悪かったな!じゃあどうしろってんだよ!」
それならそれで腹を括ろうと思ってはみたものの、やっぱりか。
人を一体何だと思っているんだ。
それでも鬼になり損ねた清次の所在無い言葉が口にされる事は無かった。
「向こうの一族と一緒になって皆血眼になって私を探しているのよ。迂闊に外も出歩けないわけ」
「だろうな…」
「だから」
一緒に来てもらえませんか。
声にならない声は窓を叩き付ける静かな雨音と夜を憚る喧騒によって呑み込まれた。
ああ、これは聞こえて居ないなとそれでも一応様子を窺うように向けた目がぶつかった。
投げた言葉の所在なげな静寂を満たす夜と、それでも口角を上げた清次によって救われた生暖かい空気に、今はそれで十分だ。
生江は眉尻を下げて笑った。
伸るか反るか。どうやら最後の賭けはのってくださるらしい。
「いいぜ。その賭けに付き合うよ」
「折角の人生を棒に振る事になっても責任は負わないわよ」
何ら意味を成さないそれに清次はなんだか可笑しくなった。
「生江こそ、それで良いのか」
「うん?」
「俺で良いのかって」
「どうして?」
「花束を持って跪く柄じゃねぇからだよ」
「そんなの鼻から期待してないってば。やめてくれる気持ち悪い」
「悪かったな気持ち悪くて」
「いいわよ。どうせあなた変われないもの」
「それもそうか」
「ねぇ」
「今度はなんだ?」
案の定うんざりした顔で目だけでこちらを窺う。
「ありがとう。清次」
「…本当に良いんだな?もう戻れないぜ」
「もう戻れないわよ」
今更引き返す手立てなど何一つ無いとそんな無秩序な理屈はきっと知っているに違いない。
残されたその言葉を最後に、夜を照らす光はもう見えない。
傘を持たずに勾配の続く暗がりへと繰り出して、その濡れたアスファルトを交わる靴音が伝う先には主人を待つ美しいフォルムが在った。この一瞬を彩る気高い白がそれを謳う。
本当に、馬鹿な人だ。そして馬鹿だ馬鹿だと思いながらも結局はその博打に振り回されれてくれる傍らの信頼に生江はそっと甘えた。
そうして空が鮮やかな色を帯び、二つの影を伴ってもうすぐ明智平に朝が来る。
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