春の風、花の跡(後編)


こんな日に限って、思い返すのはあの日去り際に振り向いて屈託もなく笑った生江のいやに真剣な眼。
行き先すら知らない女の事など、とっくの昔に忘れてやるつもりだった。
それなのに一体何だと言うんだ。
また明日みたいなそんな軽い感じで姿を消したあいつとはあれ以来何の音沙汰もない。今、何処で何をしているのだろう。新しい男でも見つけたか、もしくは特定の人間と籍でも入れてしまったか。
触れ損ねた冷たい影に今更何を問おうが、そんなものが空を伝って届く筈もないのに、それでも季節が巡る度にもう一度会えるかもしれないなんてそんな事を思ってしまうのはきっと彼女が最後にまたねと言ったから。
しかし生江にとってそれは些細な月並み挨拶程度だったのかもしれない。ふと時折、ちょっと憂鬱な気分になると決まって必ずそう思えてくる。
幾ら考えたところで答えが見える訳でもないのにこうして何年経った今でも過去と過失をずるずると引き摺っているのはきっとその所為だ。
そして自分自信にかつての色恋沙汰をどうするつもりがない事も。
わかっているけれど、鮮やかな色彩が色褪せるまで、あともう少しだけ。
若さのやるせなさは春の風と似ていた。





「あ」
桜の花弁。
小さな欠片がゆらゆらと左右に揺られながらゆったりと地へ落ちる。散ってしまった花弁はやがて土へと還るだけ。そうしてこの世界は循環して行くのだ。
ちょっと季節外れなそれに生江が思わず立ち止まった拍子に、ふと懐かしい面影が指先にちらついたような。
指の背をほんの少し掠め、再び揺蕩うその姿はなんだかどこぞの誰かさんのようだった。
高橋涼介。
何年前、よっぽど身を焦がした男の名である。
最後まで言えなかった想いは今でも恋と呼べるのか、さては思い出になってしまったのか。きっとまだ前者だろうな。
涼介の事は愛していたし、同じように涼介も自分を愛してていてくれたと思う。
それだけがどうにも心残りで。
立つ理由にしても、誰にだって人には言いたくないような事情の一つや二つはあるに違いない。別にどうしても言えないような事では無かったのだけれど、わざわざ他人に持ち掛けるまでの話でもないようなどこにでもよくある話だ。相手が相手だけにそう面倒事を匂わせるにはちょっと躊躇われて。恋人でも無ければそれに近しい間柄でもない。かと言って友達と呼ぶには違和感の方が勝るような、そんな関係だったから。
微妙な立ち位置だけに、互いが深く干渉するのを好まなかったのだが、逆にそれが良かったのかもしれない。
少し冷たい風に追われるように、生江は長らく凝視して居た花弁に目を切った。
行き交う人々がやけに遅い。そう感じられるのは春の季節感か何かなのか。
「元気かしらね…」
生江は自虐的な色を見せて笑った。
出来た人間という言葉はあまり好きじゃない。
何でも全て自分一人でこなしてしまうロボットのような人間と居ると、なんだか自分の居場所が無いようにも思えて、そして何よりそういう種の人間は他人を必要としないのがよくわかる。
だから涼介もきっとそうなんだろうなと勝手に決めつけて居た。決めつけて居たのだが実際のところ、奴は存外不器用な男なのだ。少なくとも周りが思う以上には。
別れ際、涼介が伸ばした腕から逃れるように距離を置いて、そのまま取り敢えず笑って誤魔化してしまった。言葉を聴くのが怖かったのだ、単純に。
不器用なだけにストレートに投げられる優しい言葉が安易に想像出来てしまって、そのまま勢い余って別れの言葉すら潰してしまったのが今となってはただただ裏目に出てしまったのだけれど。
ああそう言えば、彼はまだ群馬の地で己の夢を追っているのだろうか。あの時のまま、ひたすら真っ直ぐに。
それともあの涼介の事だ、とっくに叶えてしまっただろうか。何とはなしにそう思った。
そして知る術こそ無いのについつい言葉にしてしまいそうになるのだ。
あなたはもう私を忘れましたか。
「私はまだ、あなたを忘れられないのに」
花弁は何も語ってはくれない。後に残るのはなぞった軌道だけ。
花の跡だけ。

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