春の風、花の跡(前編)
何度声を掛けても反応しないどころか身動きの気配すら見せない弟をもう少しもう少しと寝かせたまま、涼介は一人朝食にしては随分と早い朝食を取っていた。
声を掛けるだけ掛けて放置するといった最早習慣と化したご挨拶のようなものだが、それならいっそ端から起こさなければ良いだろうとそんな事は百も承知はさて置いて。
啓介にしてもそれをさして気に掛けない様子なので何が何でも絶対に起こせと言われている訳ではないのは良くわかっている。しかし一度始めた習慣を途中で辞めますとなれば上手いタイミングもなかなか掴めないものだ。
そうして出来る毎日のちょっとした余分な時間をさてどう潰したものかと考えるのを一人楽しんで居たところでふと手元の携帯が鳴った。
涼介は飲みかけたコーヒーのカップを置いて代わりにそのまま電話に出る。
「もしもし」
『あ、涼介?今ちょっと出て来れる?』
「生江から掛けてくるとはまた珍しいな。何かあったのか?」
『ちょっとね。暇なら大沼まで迎えに来てもらえると嬉しいんだけど…』
なんだか煮え切らない返事だったがそれに敢えて触れるようとする気にまでは至らなかった。
普段から真面目腐った生江がこうもあからさまに誤魔化すのには決まって何か人には聞かれたくない、或いはそれらが憚られるような訳柄がある事には違いない。
触れたいような、触れてはいけないような。
この朝っぱらから近くて遠いような大沼まで繰り出すのは正直ちょっと面倒ではあるが、電話の向こうがやけに静かで生江の肉声以外物音一つ聞こえないのがどうも気になる。連れはどうした。
他人様の腹の底を探って何か見えては来やしないかと暫らくそうして居ると、電話の向こうで生江が首を傾げた気配がしたので涼介は小さく息を漏らすと電話を握り直す。
「今から行く。くれぐれも動くなよ」
『はいはーい』
上機嫌でそう答えた生江につくづく現金な奴だとは思いながらもカップの底に残る覚めた薄いコーヒーを口に含みFCに火を入れたところで漸くお目覚めの啓介が寝惚けたままよたよたと降りてくる足音が聞こえた。時間を惜しんで起こす手間が省けた事に若干感謝しつつ、リビングの入口で鉢合わせした啓介と目が合って
「あれ、アニキどっか行くの?」
やっぱりか。
涼介の肩越しに時計を一瞥した啓介がいつもの定時刻より遥かに早い兄のご出勤に何事かと眉を上げる。
「ちょっとな。そのまま真っ直ぐ大学に行くから、おまえもご飯くらい食べて行けよ」
「おー、珍しい。また走りに?」
「いや、今日は走りに行く訳じゃないんだ」
「じゃあ何しに」
そこまで言ったところで涼介が眉尻を下げて肩を竦めて見せた。
女か。いやまさか。
「今夜は遅くなる。悪いな、このところ練習に付き合ってやれなくて」
「へいへい。いってらっしゃい」
特に興味もなさそうな啓介が生返事で適当に頷いてそのまま奥へと引っ込んだ。
休日だけに留まらずいつも余裕のない朝だと思う。あと五分早く起きれば良いのにとそうは思いながらも可愛い弟の手前強くは言わない自分も自分でアレなのだが。
そう言えばいつだったか史浩に、そうやっておまえが甘やかすから弟が兄離れしないんだとか何とか言われたような事があったようなないような覚えもあるがそれはさておき。
やたらと広い敷地を跨いで短い暖気の終わったFCによいせと乗り込み、制限速度を考慮した街乗りでゆったりと、それでも気持ち急ぎめに転がす。
いつから彼女に会って居なかっただろうか。
互いが多忙を極める中、きちんとした約束での待ち合わせは非常に難しい。
そのせいなのか何なのか、偶にぽっと出の時間を見つけては連絡を寄越して来る。それは大体こういった朝の早い時間帯か、はたまた深夜もとっくに過ぎて走り屋連中が引き上げて行ったあたりを意識して狙っているのはわかっていた。
わかっていてもそれを無下にする事が出来ないのだ。
かくして大沼周辺を低速ギアを変えずにトロトロと走りながら窓の外に目を馳せていると、ややあって少し離れた駐車場付近にそれらしい人影を見つけた涼介がFCの挙動を変え、そのまま左にサイドターンした事によってそれに気付いた生江がよたよたと駆け寄って来た。見渡す限りこの周囲には空の車が何台かぽつぽつと並べられただけで、人一人として見当たらずただただ生江が一人取り残されたように背中を丸めて居たのがなんだか可笑しくなって、涼介は顔の半分で小さく笑う。冬の前の駆け込み需要なるその手の車で幾らか賑わうかと思えば案外そうでもないらしい。
窓を半分程降して乗れよと利き手で合図を促すとなんだかいつもより大分よれっとした生江が助手席のシートに降って来た。
「わざわざどうもね」
今更過ぎる文句を取り敢えず言ってみましたという態度を生江は隠そうともしない。実は言うほど悪いと思って居ないな。
「待ったか?」
「少しね。さすがにこの季節にもなると朝は冷え込むわ」
「当たり前だろう。行きの足が何だったかは知らないが、良くもこんな寒い所に長居出来たな」
「足は自分の車よ。それと言うほど長居はしてないけどね」
「…うん?」
生江の妙な言い回しに涼介は首を傾げた。立派な足があるのに迎えに来いとはまた変に噛み合わない話である。寝惚けて居るのか何なのか知らないが、要するに何が言いたいんだ。
涼介がシートに背を預けて無言で話の委細を促すと、
「…別にここに用があって来た訳じゃないから」
なんとも見込み違いな返事だった。
「それはどういう意味だ?」
「察しが悪いわね…ドライブしましょうって事よ!」
「回りくどい言い方をするな。そうならそうと言えば良いだろう、まったく」
「言ったら来てくれないと思って」
「既に帰りたいさ。それで、こんな時間に呼び出すほどの大事な用とやらを訊かせてもらおうか」
そこまで言ったところで外からばらつきの多いアイドル音が始動するとほぼ同時に、さっきまで几帳面に収まって居た筈のなんら変わり映えしない車がFCの後方に縦列されたのがバックミラーで十分に確認出来た。
そう言えばついさっき調子づいてサイドターンさせた己の車で駐車場の入口を半分ほど塞いでしまっているのを今更思い出した。涼介がちょっと慌ててギアに手を掛けるなりそれを察した生江がこれ幸いとしたり顔。
勝手知ったる様子でさっさとシートベルトを締める様子に涼介は若干苛立ちながら、それでも後ろがつっかえていると思えば自然とギアが入ってしまうのでキャリアと言うのも侮れない。
来た道とは反対方向へFCを走らせながら横目で隣の生江を伺う。
「おまえ、肝心の車はどうした」
「青空駐車してきました。そんなに時間を取らせるつもりは無いから大丈夫よ」
「わざわざ忙しい平日にする必要があったか?」
「講義までまだ時間あるでしょう」
どうしておまえがそれを知っているんだ。
「…で、オレは何処へ向かえば良いんだ?」
「お任せで」
涼介は曖昧な相槌で生江からフロントガラスの中央に目を写し、通い慣れた時間帯を外れた事によって車通りが少ないのを良い事にアクセルを開け始めた。
基本的にそういったものに拘らない生江は大体決まってこんな事をのたまう。
そういったスタンスが初めこそ面倒だなと思ったはけれど、そんな事は数を重ねてしまえばいずれ気にならなくもなるものなのだ。慣れとは恐ろしい。
「プロジェクトDの方はどうなのよ?」
「藤原から良い返事を頂いたよ。季節が明ければ本格的に活動を初めて行く」
「忙しそうで何よりじゃない」
「おまえの方こそどうなんだ?何か具体的な指標でも見つけたか」
「まぁねー…」
「煮え切らないな」
生江は困ったように眉を寄せ、そして俯きがちに瞬いた。
「……実は近々ここを離れる事になりまして。それで今日はご挨拶にと」
暮れて行く春の湊は知らねども、春の泊を知る人はいない。諸行無常は世の常だから。
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