曇天の隙間
時間を持て余してふと見上げた空には暗がりの雲が押し寄せ、先程までの威勢の良い太陽様は何方へ行かれましたかと呆れ返るような曇天に変わり果てていた。さて、どうしたものか。
待ち合わせの時刻よりも幾分か早く着いてしまった生江は握り締めた携帯との睨み合いを繰り返しながら口を尖らせる。
自業自得だと言ってしまえばそこまでなのだが、遅刻するよりはマシだろうと無理矢理自分を納得させた。否、そうせざるを得ない。
今更悔やんだところで状況は何も変わりはしないのだ。
誰にともなく小言を並べているうちに後方より聞き慣れたエキゾーストが近付き、一応身なりを整えるような素振りをしてみる。
スキール音を響かせて地面に綺麗な定常円を描き、上手に横付けされた赤いNSXの運転席から顔を覗かせた馴染みの顔に微笑むなり生江は軽い会釈をして助手席のシートへと腰を落ち着けた。
「待たせて悪いな」
「今来たところ」
「そう言うとは思ってた」
例に漏れずな反応に豪は眉尻を下げて苦笑い。
デートの定番と言えばこの一節。ともすれば自然と口走る台詞であるが故に、これを口にするのももう何度目であろうか。
昨今はプロジェクトDやら何やらで御多忙の様子であったにも関わらず休日にはこうしてわざわざ連れ出してくれるその心遣いには嬉しいのだが、折角の休日なのだから自身の束の間の休息も大事にして欲しいと思わないでもない。言ったところで聞きはしないけれど。
「やっぱり高橋啓介は速いねぇ」
「来てたのか」
「豪が走るんだもの。行かない訳ないでしょう」
「随分と物好きだな」
「人のこと言えないくせに」
「そうだった」
「そういえば、雨でも降りそうな天気ね。予報では晴れだったのに」
「峠のドライブならいつでも行けるだろ。人をアッシーにしやがって」
「まぁ、そうなんだけど」
口先ではそうは言うものの、険しそうに眉を寄せた生江は不満を露わにしている。
アスファルトが濡れると走りにくいという理屈で雨を嫌う彼女は決まって不機嫌そうな表情をするのにも最近では慣れた。慣れてしまった。
「私もプロジェクトDのエースと走ってみたかったわ」
「今のお前じゃあまだ勝てないだろうな」
「勝てるとは鼻から思ってないわよ」
「生江の走りは見ていて危なっかしい。コーナーの突っ込みが大胆過ぎるんだ」
突っ込みの速度だけならダウンヒルの藤原拓海にも劣らないようなオーバースピードのコーナリングに何度肝を冷やしたことか。
このままではいつか死んでしまうのではないかと、こちらの心配など知ってか知らずかその行為を辞めようとはしない。命知らずも良いところだ。
「失礼ね」
「馬鹿、心配してるんだよ」
「信司君はお元気?」
「暫くはかなり落ち込んでいたが、最近は走りにも興味を持ち始めている。あいつの才能は計り知れないな」
「へぇ。Dのハチロクのお釈迦も致し方ないわけね」
「それもそうと、お前の32はまだ直らないのか?」
「とうに戻ってきてるけど」
「一言も聞いてないぜ」
「言ったらこのコに乗せてくれないでしょう?」
悪びれる様子も無く窓枠に頬杖をつきながら外を眺める彼女のほくそ笑んだ横顔を一瞥した豪はやはり鬼になり損ね、露骨に溜め息を吐いた。
一週間程前だったか、箱根の麓にて出没するどこぞの不良様に金属バットらしき長物で窓ガラスを見事なまでに叩き割られた生江のR32は暫くの間修理でお預けとなっていたのだが、それならそうと何か一言有っても良いのではないかと、それでも豪は不満と一緒に温い缶コーヒーを一気に飲み干した。
「あぁ、それと」
「うん?」
「気持ちは嬉しいけど、休日くらい家でゆっくりした方が良いんじゃないの」
「それもそうか。じゃあ今日は家デートな」
「ああそう。それならお風呂貸して」
「お前、また家に帰ってないのか」
「クルマの方が居心地良いもの。ついでに課題のレポートを終わらせたら朝になっていたけど」
「人の心配をする前に自分の心配をしろ」
「じゃあお言葉に甘えて」
言うが早いか、自分のクルマのように慣れた手つきで助手席のシートを倒した生江は豪が口を開くよりも先に眠りについてしまった。
寝た子を起こす気にもなれず、赤信号によりNSXをゆるりと停車させるとシフトノブから離した左手をそっと生江の頬へと持って行く。
心地よさそうに寝息を立てる彼女の透き通るように白く柔らかい頬に触れ、バトルでタイヤを温存するよりもずっと気を遣っているこわれものの存在を改めて認識させられた。
頬に張り付く髪の毛を指先で弄び、擽ったそうに身じろぎをする生江の酷く穏やかな表情にふっと小さな笑みを漏らし、さながらすっかり掌の上で転がされているような気分である。自由奔放な彼女の事なので、実際にそうなのかもしれないとか言うアレはさて置いて。
街中で安全運転を心掛けるドライバーの皆様はこれでもかと言わんばかりの大幅な車間距離を開け、やがて信号に従いゆっくりと動き出す。
名残惜しそうに離された豪の冷たい指先は再び定位置へと戻され、アクセルを緩く踏み込み、前方の車両の違和感にふと気付く。
先程まで太陽の面影すら無かった曇天模様の空から厚い雲の隙間を押し通るようにして光を落とし、反射するそれに豪は眩しそうに目を細める。
彼女の言う通り、今日は折角の休日だ。それなら少しくらい遠回りをしても良いじゃないか。
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