短編3 | ナノ



「あれ、届いたの?本棚」

ひょこ、という効果音の似合う所作で月岡紬が顔を出す。今しがた宅急便で届いたばかりの段ボールを抱え、その言葉にひとつうなずいてみせれば彼は表情を綻ばせ「そっか」と笑う。

「重いでしょ、それ。運ぶの手伝うよ。」
「……ありがとう。」

時々こわくなる、ぞっとする。どうしてこのひとはこんなにも優しい顔ができるのか。どうしてわたしに、優しくするのか。わたしに何かを、望んでいるのか。

「…それ、組み立てる前にハーブティでも飲む?」

目敏い彼はそんな、こちらのわかりやすい感情の機微くらい、お見通しなのだろう。感情の見えない彼の笑みに、またこくりと無表情のまま頷いた。


はっと気がついた時には夜だった。届いた本棚を組み立てるのに随分と熱中してしまっていたらしい。爪の間に木屑が入り込んでしまっている。思いついて掌の匂いをかいでみれば、新しいおもちゃをあけたときのような、新品特有の匂いがした。
夜まで他の劇団の手伝いがある、と言っていた紬はまだ帰ってこない。なんだか手持ち無沙汰に思え、立ち上がる。昨日のハーブティのティーパック、残りはどこだっただろうかと思いつながらキッチンまで歩をすすめる。
お気に入りの赤いマグを取り出し、コポコポとお湯を沸かしてみれば、ひどく部屋が静かなことに気がつく。自分も紬も、あまりテレビやラジオを好まない性質だった。そうだ、紬がいないと、この部屋はとても、静かだ。

リビングへと目を向ければ、作りかけの本棚が目に入ってほんの少しぐったりとする。作り終わるまであと、どのくらいかかるだろう。紬が帰ってくるのを待って、手伝って貰えばよかったかもしれない。
ポウ、と間抜けな音を立ててお湯が沸く。マグにお湯を注ぎながら、そういえばこのマグも随分と年季が入ってきたなとしみじみ思う。
不意にはっとする。マグカップだって、ソファに投げ出されたお気に入りのクッションだって、テレビの前に投げ出された読みかけの本も、そうしてあの本棚だってそうだ。この部屋に住み着いてから増えたもの。もともと自分が持っていなかったもの。

「あ、れ、わたし…」

初めて紬の部屋に来た日のことを覚えている。リュックひとつと、スーパーで買って来たビールの袋を抱えてドアをあけた名前に、『随分身軽だね。』と紬は力なく笑ってみせたのだ。
すぐでてくつもりだから、と言おうとして、けれど、紬の目が余りに寂しそうで言えなかった。そうして、自分はあの時紬に何を言ったのだっけ。そうして自分は、この部屋でこんなにもたくさんのものを抱えて、これからどうやって生きて行くつもりなのだろう。

「…名前ちゃん?」

いつもそうだ。こうして途方にくれて、どうしようもない時、いつも聞こえるのはこの声。
振り返れば、ぽかんとした顔の紬が近所のスーパーの袋をひとつ手に提げ、こちらを見ているところだった。

「どうしたの?手でも切った?大丈夫?」

そんなに悲痛な顔をしていただろうか。矢継ぎ早に飛んでくる問いかけにふるふると首を横に振れば、「ならよかった。」と紬がどさりとビニール袋を床に下ろす。その拍子に中に入っていた2本のビールが覗く。

「…なんだ。俺が帰ってくるのまっててくれれば手伝ったのに。」
「………え?」
「本棚。あれまだ完成してないでしょ?」

紬の言葉に、完成を待つ本棚の存在を思い出してはっとする。もし、あれが完成したら。あんなに大きくて、重たいものを所有してしまったが最後、きっと自分はもうこの部屋から出て行けなくなる。そんな気がした。

「…随分と、荷物が増えちゃった。」

不意にそう、口をついて言葉が出た。ため息を吐くように、そっと。不満、というよりはどこか幸福めいた響きで。

「…こんなに長居するつもりじゃなかったのに。」

そう思ってあの日、ほとんど身一つでこの部屋のドアをくぐった。そのはずだった。いつからか、緩やかに絡め取られてしまっていた。そうして自分はおそらく、心のどこかでそれを望んでいた。

「………初めて名前ちゃんがうちに来た日のこと、覚えてる?」

名前の話を黙って聞いていただけの紬が不意にそう口を開く。同じことを考えていたことに驚いて思わず紬の方を見やれば、彼はいつも通りの笑みをたたえてそこにいる。名前の目を一瞬だけしっかりと見据え、そうして目元を緩めて紬は不意に遠くを見つめてしまう。

「…随分と身軽そうな格好で来たから、ああ、この子はきっとずっとここにはいてくれないんだろうなって、なんとなく漠然と思ったことをよく覚えてる。そうしたら案の定、名前ちゃん『いつでも出ていけるように』とか言うものだから、俺、さみしくなっちゃって。」
「…………わたし、そんなこと言った?」

そんな、残酷なことを言ってしまった自分に途端に嫌気がさす。眉をしかめた名前をよそに、「名前ちゃんあの頃、やさぐれてたからなあ。」と紬は力なく笑ってみせるので、また申し訳ない気持ちになる。これが黒歴史というやつか。

「……でも俺、さみしくはなったけど不思議と納得したんだ。ああ、この子はたぶんほんとうにそんな気持ちで俺の部屋にきたんだなって。だからこそ、ちょっと悔しくなっちゃって。意固地でも逃さまいぞ、って、君をこの部屋に縛り付けることばっかり考えてた。この数年間。」

段々と声を潜めた紬が名前の髪を掬う。その所作に思わず紬を見やれば「だから、おあいこ」と紬が悪戯ぽく笑う。

「…紬がそんなこと考えてたなんて、全然気がつかなかった。」
「……俺、これでも役者だからね。それに俺、意外と頑固で独占欲強いってよく言われるし。」

そう言って笑う紬がどことなく得意げな顔なので笑ってしまう。彼が頑固なことも、時折見せる独占欲の強さも、よく知っていた。この数年間、この部屋でずっとずっと見てきたのだから。

「……わたし、紬にそんなに多くのものをあげられた気はしないし、これからもあげられるとは到底思わないけど。それでも紬はまだわたしをこの部屋に置いておきたいって言ってくれるの?」

我ながら面倒な質問をしていることは重々承知であった。けれど、こんなにも自分に固執する人間がいることはやっぱり不可解で、その原理を解き明かすことはできそうにないのだ。こんな自分を、彼は何故。

「じゃあ君は、俺に何かを望んで、そばにいてくれてるの?」

静かに言い放つ紬の言葉に、名前は小さく首を横にふる。それを満足げに見つめた紬がまた口元を綻ばせる。

「じゃあきっと、それとおんなじ。ね、名前ちゃんにだって本当はわかってるでしょ。」

ああまた、錠の落ちる音が聞こえた。紬の手で緩やかに閉じられていくこの部屋に、本当はずっと気がついていた。自分たちはきっと共犯なのだ。どちらも悪くて、どちらも決して悪くないことを知りながら、表面上の悪役と被害者を演じているだけ。
ああもう逃げられないのだろうな、と心の隅でぼんやりとそう思いながら、毒のような紬の口づけをひとつ受け止める。ああ、またどこかで、鍵の閉まる音。

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