短編3 | ナノ



朝のあの、薄青い空気に触れてみたくて、わたしは夜を放棄したんだ。



目をあければ、ベッドのシーツが薄ぼんやりとした光の中に浮かんでいた。ぼうっとした頭でその様を眺めながら、隣で眠りについたはずの体温を探す。けれどもう、彼のいたはずの場所はすっかりと冷たくなっていた。



「…あかしくん?」

リビングへとひょこり、顔を出せば穏やかな笑みをたたえた彼と目が合う。

「…やあ。ずいぶん早いね。」

彼は電気のついていないリビングのテーブルでひとり、グラスを傾けていた。何を飲んでいるのかはわからなかったけれど、その液体は夜明け前特有の光を吸い込んで、さまざまな色に輝いているように見えた。夜明けの色を飲み干しているかのような、その美しさに言葉を失った。

「苗字?」

自分を呼ぶ彼の声にはっと我にかえる。あ、あかしくんのほうこそずいぶん早いね…と呟けば彼は真意の見えない瞳でゆらりと笑った。何も言えなくなってしまう。そんなわたしから目を逸らして、彼は窓の外を目を細めて眺める。

「……少し寝たほうがいい。まだ君が起きてくるような時間じゃないよ、」

どことなく拒絶を孕んだその声に彼の顔を覗き込もうと少しずつ歩を進める。そうして彼の横顔にそうっと手を伸ばそうとして、躊躇った。触れてはいけないような気がしたのだ。触れることのできなかった指先をぎゅっとしまいながら、「でも、」とわたしは小さくこぼす。

「でも、色々やらなきゃいけないことがあるの。わたしには。だから、寝ている暇なんてない。」
「その色々って、たとえば何?」
「何って、そりゃ、」

強い口調で言い返した癖に、言葉に詰まってしまう。頭が真っ白になったような感覚に陥る。あれ、わたしは、なにをしなくいちゃいけなかったんだっけ、

言葉をなくしたわたしを、赤司くんがまた目を細めて見つめる。その目を捉えた瞬間、大粒の涙がこぼれてしまう。ぼたり、と汚い音を立ててフローリングに涙が散っていくのがわかった。

「あ、れ、おかしい、な。わたし、何かあったわけ、でもないの。こんな、なんでもない、日に。それも、こんな、綺麗な朝、に、泣いてる、暇なんてない、のに。」

途切れ途切れになりながらも、するすると言葉は出てきた。自分を責め立てなければならなかったからだ。自分のことすらよくわからなかったけれど、今この場面で泣くことがどれほど理にかなっていないか、場にそぐわないかは理解していた。おそらく怯えた目をしていたに違いない、ちらりと赤司くんを見れば、彼は今度は優しく微笑んでみせるのでたまらなく安心してしまう。

「おいで、苗字」

言われるがまま、赤司くんへの距離を詰めれば、彼の膝の上に座らされてしまい、思わず下を向く。すぐそこに端正な彼の顔立ちがあった。はずかしい、というよりも情けない気持ちでいっぱいだった。どうしてわたしはこんなにも、汚い泣き顔を晒しているのだろう。

「不幸が不幸の形をしていなきゃいけないわけではないし、朝よりも夜の方が悲しいだなんて決まっているわけじゃない。」

唐突なその言葉にはっと顔をあげる。なにもかもわかっているよ、とでも言いたげな微笑みにまた言葉をなくす。そうしてわたしは、声をひとつあげて泣きじゃくる。その咆哮は何か、動物めいていて、遠い昔にだれかからそんな話を聞いたような気もした。けれどよく覚えていない。もう何もかも忘れて、彼の胸にすがりつくことしかできなかった。

「何か決定的な不幸がなくとも、こんなにも美しい朝だろうと、泣きたい時は泣いていいと、僕は思うよ。殊更、君みたいな子はね。」

否定されることが常で、そんな日々を当たり前だと受け入れて、気がつけば自分の心を騙すことばかりだった。肯定されたのは久しぶりだった。やめてほしい、そんな風に急に、優しくするのは。でもやめないでほしい。わたしを、肯定してほしい。たったひとり、あなたがわたしを肯定してくれるのなら、わたしはまだしばらく生きてゆける。

「…おやすみ、苗字」

遠くなっていく彼の声を耳の端に捉えながら、わたしはゆっくりと沈んでいく。これからのことはこれから考える。たとえ目を覚ました先が、何もかも枯れ果てた残酷な世界であろうと、今だけはわたし、世界で一番しあわせだよ。

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