短編3 | ナノ



ぐしゃぐしゃだった。もうだめだ、と思った。

「…あは。やっと見つけた。ここにいたんだ」

クローゼットの中に置いてきた、懐かしいドレスやハイヒールのことを思う。三好一成の目を見ると、そういう煌びやかなものばかりを思い出す。わたしがかつて憧れて、そうして自ら捨てたもの。諦めて、見限って、置いてきたもの。

「……三好くん、大学の講義中じゃないの?」
「んー自主休講!っていうか!そういう名前ちゃんだって本当は仕事じゃないの?」
「……わた、しは。」

そうして言い淀む。置いてきたデスクの上の大量の書類たち。今のわたしにはそれは、重た過ぎた。口にするのも憚られるほどに。
そんなわたしを穏やかな目で見た一成は一瞬だけするりとわたしの頭を撫でた。あ、と思う間もない。一瞬のことだった。そうしてわたしの手を引いた一成はずんずんと歩き出してしまう。細い手首なのに、つよい力だった。

「……ねえ、どこにいくの!」

ずるずると、半ば引き摺られるように石畳を歩くわたしの方へ向き直ることもなく「んー、」と一成は呟いたきりだった。それきり、沈黙が訪れる。真意の読めないその背中にもう一度問いかけることは憚られた。

「んー。どこにしようね。海とか?」

見たことのない赤い車の前で、ドアを開ける瞬間になって初めて一成はそう切り出す。その顔はあいも変わらず穏やかで、わたしばかりが焦っているようだった。こんなことをしている場合ではないのだ。本当なら、今すぐ職場に戻らなくてはならないのに。

「……三好くん、わたし、あのね、」
「……………なんにも言わないで。大丈夫。ぜんぶ俺のせいにしていいから。」

穏やかなのに、有無を言わさない強さがあった。わたしの唇まで飛び出してきていた言葉たちはたちまち影を潜めてしまう。それらを飲み込むように強くひとつ頷けば、一成は満足げに笑う。

「…そいじゃ、安全運転で向かいますよ〜」
「……三好くん、運転できたんだね。」

おずおずと助手席に乗り込み、手渡されたブランケットを膝にかけながらそう言ってみせると、ガチャリと鍵を回しながら一成が笑ってみせる。ブゥン、と心地よい唸りひとつ。緩やかに車は発信する。なんだか夢見心地だった。ついさっきまでいた日常を置き去りにしていくかのような。

「……夢みたいだね、なんだか」

夢でいい、と思う。夢でなくては、と思う。

「……ちゃんと覚められるかな、わたし。」

そう言いながらぐったりと目を閉じる。ほんの少し傾いた、赤い日差しがまぶしかった。そんなわたしの唇に、一瞬だけつめたい、知らない味が広がって思わず目を見開く。その先には、なにかを愛おしむように目を細めた一成がこちらを見つめているので涙が出そうになる。

「…ほんのちょっとだけ、さ。ごめんね。俺、ずるいよね。」
「………ずるくないよ。ごめんね。ずるいのはわたし、たぶんね、ぜんぶわたしが悪いの。わたしが悪いから、だから、ぜんぶ、こんな風に、だめになってゆく」

言葉がまたキスで遮られて、その拍子に嗚咽に似た響き変わる。信号は無情に青に変わって一成がそっと身を引く。わたしも必死に唇を噛み締めて涙を堪えた。

「…言ったでしょ。俺のせいにしてよって。」
「………だめだよ。そんなに甘やかさないで。」
「あはは、いいんだよ。俺の前でくらいはもう少しずるくなってよ。」

でも。そうしたら。そうしたら誰が三好くんの逃げ道になってあげるというのだろう。わたしのずるい重みを一心に受け止めて、そうしてそんな彼の業はどんな風に昇華されていくのだろう。

「…大丈夫だよん。気づかれないくらい、それくらい短い、ほんの少しの休憩。神様も目を瞑ってくれるって。」

わたしの心配事などお見通しのような彼にそう先手を取られては何も言えなくなる。そうしてわたしは、心の中で小さく決める。いつか彼が大人になったら。わたしのように、逃げ道のない毎日に途方に暮れていたら。その時は必ずわたしが、彼を攫ってみせようと。

「…絶対に、逃してあげるからね。」

わたしたちを乗せた車はまた、低い唸りをあげて道路を滑らかにすべっていく。ほんの少しだけ、小狡い大人の逃避行。2時間したら帰るから、ね。ほんの少しだけ、目を瞑ってて、神さま。


二/時/間/だ/け/の/バ/カ/ン/ス/ 宇/多/田/ヒ/カ/ル

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