「…あ。」
白いトングでチョココロネを持ち上げた瞬間、背後から声があがる。その声に幸がゆっくりと振り返れば、見たことのある顔の女がこちらを不躾に指差している。どこで会っただろうか、と記憶を反芻してみるも思い当たらない。
「…あの、瑠璃川くん、だよね。」
「……そうだけど。えっと、どこかで会ったことある…よね?」
彼女がこちらの名前を知っていたことで、幸の警戒心が少し緩む。そんな幸の問いかけに、彼女は「会ったこと…っていうか、」と言い淀んだ。
「?」
とりあえず先程のチョココロネをトレーへのせてしまおう、と取り落としたそれをもう一度掴もうとしたところで「わたし、名前の友達なんだけど。」ととんでもない言葉が飛び込んできた。再度トレーに載せることができなかったそれは、どうやら諦めなくてはならなそうだ。
「少し、話せるところにいかない?奢るよ」
その言葉にため息を返した。肯定の意味でトレーとトングをカウンターへと返却すれば、彼女もほんの少し困った顔をしていた。もうすっかり思い出した。彼女は、あの千秋楽で名前の隣に座っていた女だ。
「嫌いになった?名前のこと。」
パン屋に併設されたカフェで、諦めたはずのチョココロネと湯気の立ち登る紅茶をなんとなく見つめていれば、なんとなく予想していた言葉が投げかけられた。
その言葉に思わず目線を落とす。何と答えるべきかわからなかった。けれど自分でもなんとなくわかっていた。もし嫌いになっていれば、自分はこの目の前の女についてきてはいないだろうと。
「…あの仏頂面、元気してるの?しばらく会ってないけど。」
問いかけを問いかけで返せば、彼女はそれ以上詮索してはこなかった。「元気だよ。なんか忙しそうにしてるけど。」と、何か言いたげな視線と共に返事が返ってくる。沈黙が重たくて、なんと言えばいいのかわからなくて紅茶を啜る。
「……わたしね。前に三好くんのことが好きだったんだ。」
「……え?」
長い長い沈黙に居心地が悪くなってきた頃、突然聞こえてきたのは予想もしていなかった言葉だった。
「まあ、もうフラれてるんだけど。フラれたっていうか、なんだろうなあ、向こうに好きな人がいるのがわかって好きだって言えなかった。今ではもういい友達。」
そう言いながら、グッと目の前のカフェラテを飲み干す姿を見ながら、ああ。名前ともこんな風にやけ酒をしたんだろうかとなんとなく思った。一緒に泣いたのだろうか、笑い話にしたんだろうか。彼女は自分以外といる時はどんな風に笑うんだろうか。そんなことばかり考えてしまう。
「言わなかった後悔って、思ってたより根深くて自分でも思っている以上に尾を引いたりするんだなって、私も初めて知ったの。だからね、瑠璃川くんと名前には、そんなふうになってほしくないなって思ってた。そしたら今日君を見かけて、思わず声をかけちゃったよ。」
もう自分の中で答えなんてとっくに出ていた。それでも最後の一歩がずっとずっと踏み出せなかった。
「瑠璃川くんと出会ってからの名前、本当にポンコツで、びっくりするくらいらしくなくて、でも本当に可愛かったの。幸せそうだったの。」
そんな風に言われてしまったら、もうなかったことになんてできなくなってしまう。いや、本当はもうとっくにそんなことなんてできなかったけれど。
「…ありがと。アンタもなかなか世話焼きだね。」
そう言いながらぐっと飲み干したミルクティーはすっかり冷め切っていた。
「オレ、行ってくる。」
「…え?今から?」
カフェを飛び出すと、ぽつぽつと雨が降り始めていた。少しだけ怯んで、でもそのまま走り出す。自分の方も大概、らしくないなと思いながら少しずつ傘の開き始めた天鵞絨町をすり抜けていった。