○ゆき | ナノ
インターフォンの音にはっと顔をあげた。あのまま買い物の予定を蹴飛ばし、一人の家に帰ってきたところでぐったりとソファーに倒れこんだまま寝てしまっていたらしい。重たい体を持ち上げ、モニターへと歩を進めた。お気に入りのプリーツスカートには皺が寄ってしまっていた。その事実に顔を顰めながらモニターを覗き込めば、そこには予想通りバツの悪そうな顔をした幸がいた。

「……あけるからまってて」

掠れた声でそういってみせれば、思っていたよりも冷たい声が出た。幸がほんの少し肩を竦めるのがモニター越しにもわかる。別に、怒っているわけではないのだ。ただ悲しかっただけ、それをわかって欲しくて、はやる気持ちで玄関へと歩きだす。

「………暑いでしょ。上がって。」
「………うん。」

ドアをあければ途端にもあっとした空気が流れ込んでくる。その空気と共に幸を招き入れた。彼はいつもよりしおらしく自分専用のスリッパに足を通した。



つめたい麦茶のグラスがカランと揺れて、それを合図にしたかのように、幸は「ごめん」と呟いた。普段よりも不自然にあいた距離がなんだか物悲しい。

「……今日、はじめて九門に会ったでしょ。」
「…?うん、公演で何回か見たことはあったけど、会ったのははじめて…」

昼間の彼の姿を思い出す。舞台の上で見るよりもいくらか幼い顔つきをしていた。

「……屈託のない、って表現がすごくしっくりくる子だよね」

見たままの印象を端的にそう告げてみせれば、幸はその言葉に眉を寄せた。嫌悪からするそれではなく、怯えたようなその顔にこちらがたじろぐ。どうしてそんな顔をするのだろう。
小さく息を吐き、幸は一瞬だけ逡巡したかのようにおし黙る。だがその一瞬後に意を決したように口を開いた。

「…俺、あんな風にアンタに可愛いだの綺麗だの言ったことなかったから。アンタが九門にあんなに褒められてて嬉しそうで、ちょっと焦った。そんなこと、オレの方が何倍も知ってるのに、それを口に出さなかった自分が嫌で、後悔したの。」

全く予想すらしていなかった言葉に声を失った。後悔、だなんて。勝気な幸には似合わない言葉だった。その弱気な顔だって、幸らしくなかった。

「…そんな、こと。わたしは気にしてないよ。」

そんなに嬉しそうな顔をしていたのだろうか、と昼間のことを思い出す。たしかにあんなに正面切って褒められるような機会など滅多にないものだから、それ相応のだらしのない顔をしていたのかもしれない。

「………オレが嫌なの。可愛い、とか、綺麗、とか、そんなの、オレだっていつも思ってるし…」
「………」

幸らしからぬ言葉に脳がくらりとする。一体どうしてしまったというのだろう。何が幸の引き金を引いてしまったというのだろう。

「……少し昔のオレなら、こんなこと絶対に思わなかった、アンタのせいだから。」

その引き金がもし自分だとしたら?そう思えば堪らなくなった。こんな、自分が誰かの人生を煩わすなんて、豊かな気持ちを与えてしまうなんて、想像したこともなかった。その相手がまして、こんなにも愛おしい相手であるなんて。

「……幸はどんどん、素敵な男になっていくね。」
「…そんなことない、」

幸の頬に触れてそう言ってみせれば、わかりやすく幸がふいっと顔を背ける。自分の隣で、少年が少しずつ大人になっていく。自分の知らない顔がまた一つ増えていく。それを数えているうちにきっと、また一つ季節が巡っていくのだろう。そう思えばツンと鼻の奥が痛んだ。

「…ああ、なんだ。今年も夏が来てたんだね。」
「……とっくに夏だよ、ばか」
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