○ゆき | ナノ
夕暮れの光の差し込む電車は、仕事帰りらしい様相の人々で溢れかえっている。その隙間をかいくぐるように名前と幸は肩を並べて窓の外を眺めていた。
今日のあれが美味しくて、あれが綺麗で、あれがすごかった!と、幼い表情を浮かべながら逐一感想を述べる名前を、吊り革につかまりながらぼんやりと見つめれば、自然と頬が緩んでいることに気がつく。この頃毒されている、と思う。突然自分の日常の中に現れた、この女に。

「瑠璃川くん今日もデートしてくれてありがとう、」

ぼんやりとその横顔を見つめていれば、彼女が突然そう言ってのけるので、思わずふいと顔を逸らす。

「…別に、買い物に付き合っただけ。いつも言ってるけどデートじゃないから。」

いつも通りそう返答すれば、あは、手厳しいなあと彼女が小さく笑う。そのタイミングで電車のドアが開き、沢山の人が乗り込んでくる。その分だけ名前と幸の肩の距離が近づいた。



段々と口数の減っていく名前を横目でちらりと覗いていれば、彼女はこくこくと船を漕ぎ始めていた。ゲンキンな女…と心の中で小さく呟いてから、まあいいかと正面の窓に映る空をぼんやりと見つめる。彼女と出会った夏の空気はすっかりと息を潜め、どことなく冷たい様相をした空が藍色に染まり始めていた。名前と幸が出会ってから、そのくらいの時が流れていた。

混み始めた車内、ふと幸が違和感を覚えたのはその時であった。腰のあたりを不自然に動き回る手に一度は体が強張る。だが自分の隣で器用に立ちながら眠る名前を見た幸は体の緊張を解いた。

(…この仏頂面にバレた方が面倒だしな、)

彼女が降りる駅まであと数駅だった。いつものように、改札の向こうに消える彼女を見送るまでの辛抱だ、そう考えればふっと体の力が抜ける。依然として不自然な感触は続いていたが気にならなくなった。1人の時ならばきっと睨みつけてやるところであったが今日はそういうわけにもいかない、そういう気分も起こらなかった。

ぱし、と強い力が幸の手首を掴んだのはその瞬間だった。思わず隣を見やれば、顔を強張らせた名前が唇を震わせて一心に足元を向いている。

「…どしたの、仏頂面、」

思わずそう問いかけてみるも名前は何も言わない。幸と目を合わせようともしなかった。幸が不自然に思っていれば、丁度電車が停車した。そこは彼女も幸も降りる筈の駅ではないため、そのまま閉まるドアを見送ろうとすれば、名前が強い力で幸の手首を引き、ずんずんと入り口を目指して行く。

「…ちょっ、と、どうしたの?」

不可解な彼女の行動に思わず大きな声が出る。ぷしゅう、と間抜けな音を立てて閉まったドア、聞いたこともない名前の駅で降りたのは幸と名前の2人だけだった。背後に行ってしまった電車の音を感じながら、幸は注意深く名前の横顔を見つめた。表情は読めなかった。

「………痴漢、されてたでしょ。」

電車が遥か遠くに消えてしまってから、誰にも聞かれていないことを確信してから彼女はぽつりと言葉を落とした。予想外の言葉に目を見開く。どうやら気づかれていたらしい。

「……気づいてたんだ。」
「………わかるよ。わたしだって女だもん。」

そう呟いた彼女は何故だか泣きそうな顔で幸を見上げた。たじろいでしまう、どうして名前が悲痛な顔をするのか、幸にはわからなかった。

「……よくあるの?ああいうの、」
「……………まあ、たまに。」

ああ、忘れていた。自分を異端として見ない彼女のとなりにいたせいで、ありのままの自分でいる時間が増えていたせいで、忘れていた。覚悟してはいるのだ、この生き方を続けていく上で、こんな風に弱者として扱われることだってあるということを。男であるということをわかってもらえずに、非力なものとして抑圧されてしまうこともあると。そういうことを、すっかり忘れていたのだ。

「……別に、オレは平気。そういうのもぜんぶ納得した上でこういう格好してるわけだし。なんなら男なんだから1人だって撃退できるし……アンタがそんなに、気に病む必要なんて、ない…」

そう言ってみせても彼女の表情は晴れなかった。むしろぎゅっと唇を噛んでしまうのでまたたじろぐ。なんと言葉をかけるべきかわからなかった。

「……くやしい、」
「え?」

長い沈黙の後に落とされたその言葉に、幸は耳を疑った。まったく予想していなかった言葉に返す言葉が見当たらない。困惑していれば彼女は表情を強張らせたまま、重い息をふいっと吐く。

「……くやしい。瑠璃川くんに理不尽なことが降りかかることが、すごくくやしい。非力な存在として、抵抗しないだろうって、軽んじられることが、すごくくやしいの……なんでだろう……自分がされたわけじゃないのに、誰かに降りかかる理不尽がこんなに悲しいなんて、それを振り払えない自分が、こんなにも情けなくてくやしい、なんて、わたし、知らなかった…」

弾丸のように打ち込まれる彼女の言葉に、幸は途方に暮れてしまう。彼女もまた、自分の感情の整理ができていないようであった。
ごめん…とか細い声が聞こえて、見れば名前が眉を下げてこちらを見つめていた。

「………そこのベンチで少し座ってから帰る?」
「……うん、どこだろうこの駅…知らないところで降りちゃってごめんね。」
「……………いいよ。オレの方こそ、ありがとう。」

そう呟く言葉はしりすぼみになってしまう。彼女の言葉は困り果ててしまうけれど、どこまでも優しくて、不思議とじんわりと暖かかった。

「……わたし、お礼を言われるようなことなんてしてないよ。むしろ帰るの遅くなっちゃってごめんね。」
「………わかんないならいいよ、でも……ありがと。」

誰もいない駅のホーム、空はすっかり夜の色をしていた。少し肌寒くなった、秋を感じさせる空気の中で名前と幸は何をするでもなくぼんやりと夜の空を見上げていた。ベンチに腰掛けた2人の肩が今までよりもずっと近くになっていることに気がついた幸は心の中で小さく溜息をつく。ああ、気がつけばこんなにも侵食されているなんて、らしくない。触れそうで、でも触れてはいないはずの距離にある名前の肩が、何故かじんわりと暖かいような気がした。
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