○ゆき | ナノ
名前はひた走っていた。見慣れた商店街の人ごみの隙間を。一軒の店を目指して。






「…ねえ、」
「ん?」
「あのシェヘラザード役の子、なんていうの?」

カーテンコールが終わり、会場が拍手の嵐に包まれているその最中、名前は友人にそう問いかけた。彼女の思い人は、アラジン役の男であるらしいということ、そうして何故かこの小さな劇場であの皇天馬がアリババを演じているということ、その程度の認識だったのだ。

『今宵も語って聞かせましょう。めくるめく、千の物語のその一つ…』

だからこそ、その少年が口を開いた瞬間、名前は思わず息を止めた。少女、と言っても差し支えのないその美しい立ち姿は、名前に言葉を失わせた。

「あああの子?ええと…確か、瑠璃川幸くん、だったかな…」

パンフレットを捲る彼女の指を見ながら、「るりかわゆき…」と名前は反芻する。その様子を見ながら友人は、「あー」と声をあげる。

「…名前昔からああいう中性的な子好きだよね…」

その言葉にこくりと頷けば、「嬉しい誤算…」と友人が呟くのが聞こえる。それは名前にとっても大きな誤算だった。まさかこんなふうに、出会うだなんて思ってもみなかったのだ。

「…明日は千秋楽だから、終わった後楽屋に挨拶でもいこうかなとでも思ってたんだけどどうする?」
「いく、」
「おお即答、」

今だ、と思った。今しかない、と思った。だがそれは確固たる決意であるようでその実、名前を不安にさせた。何か一つに固執したことのない自分が、今更?今更、美しいものに触れたいと思っている。気高い生き物の目に映ってみたいと望んでいる。

「…私、明日三好くんに何か差し入れ用意するつもりだから、名前も瑠璃川くんに何か持ってくればどうかな?」

そんな名前を見かねてか友人が優しい声色でそう呟く。心此処にあらず、といった様子の名前は黙ってその言葉に頷くことしかできない。






そうして、名前はひた走っていた。生まれて始めての衝動に、理由が欲しくて。或いは自分は、彼を利用しようとしているのではなかろうか、と一抹の不安を覚えながら。彼を信仰の対象にすることで自分を肯定しようとしているだけなのではないのだろうか、とも思いながら。それでも走った。

「………あの、すみません。」

ぎりぎりまで考えて、考えた。何を渡すべきか、考えて考え抜いた。そうして辿り着いた答えに従順に身を、明け渡す。
大慌てで入ってきた名前を、店員は驚いた様子で見据えている。息を切らしながら「あの、」ともう一度呟いた。

「…花束をひとつ、ください」
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