バックミラー越しに見た幸はぼんやりと窓の外を見つめて居た。窓ガラスはもう、黙りこくったままのわたしたち二人の溜息にもならない息ですっかり白くなってしまっているというのに。何も面白いものなど見えないだろうに。信号待ちの隙に、わたしは曇り止めのスイッチを入れた。 「…幸、学校で何かあった?」 彼は基本的に助手席には乗らない。だからこそわたしはこんな風になってしまった彼の頭を撫でてあげたことも抱きしめてあげられた試しもない。 まあ、彼にはそういう救いは必要ないのだろうけれど。 「…別に。何もないけど。」 「……ふーん、美形は憂い顔も様になっていいね。」 「……うっさい。どちらにせよあんたみたいなおばさんに話すことなんてない、」 「あはは。同い年の友達にだって悩み打ち明けないタイプのくせに。」 窓ガラスの曇りがなかなかとれないので、ほんの少しだけ窓を開けた。そこでようやく空気が軽くなり、幸の方もいつも通りの生意気な、年齢にそぐわない表情を取り戻す。 「別に他人にわかってもらう必要なんてないし。俺のことは俺がわかってれば、それで。」 それきり黙りこくってしまった彼をミラー越しに眺めて、わたしは小さく息を吐く。そうしてゆるりと車を発進させた。雨はそこまで強くないけれど、まだまだやみそうにもなかった。そんなどことなくセンチな雰囲気に充てられてか、わたしはフロントガラスを見据えたまま得意げに言葉を零す。 「…そんな幸くんに、君よりほんのちょっと長く生きてるお姉さんから一言、」 「は?ほんのちょっと??かなり、の間違いじゃない?」 相変わらずの悪態にほっとする。そうだ、こうでなくては。これはわたしのよく知る瑠璃川幸だ。こうでなくてはならない。車を運転するだけのわたしと、ただそれに乗り込むだけの幸。それだけだ。 「…人間ってさ、結局は自分にとっての善し悪ししかわからないんだよ。自分にとって都合が『良い』か『悪い』か。そのくらいにはシンプルな生き物だよ?」 わたしは些か饒舌になっていた。雨だというのにすいすいと走っていく車、置いていく景色達。そういったものがわたしを昂らせていたらしい。幸は黙って外を見ているだけだ。 「…その理屈でいくと………幸はわたしの世界において、とても美しい生き物だ。」 心地よいエンジン音に身を任せていたわたしは、幸がどんな顔をしているのかに気がつけなかったのだ。ただ一心に、前を見つめるだけ。駆け抜けていくだけ。幸にとっての、そういう生き物でありたかった。彼の人生の中でただ駆け抜ける心地よい一瞬でありたかった。この気高くて美しい生き物を、心地よい距離から眺めていたかった。それこそ、運転席と後部座席くらいの距離で。 遠目に赤いライトが滲んだので、わたしはそっとアクセルを緩める。ブレーキを踏み込めばキッと小さく音を立てて車が止まった。相も変わらず黙りこくったままの幸が心配になったわたしはそこでようやくミラーに目を向けた。 突如、ミラーが白一面に染まったのはその時だった。ふわりと心地よい香りと体温を感じ、わたしは思わず目を見開く。小さくクラクションが鳴ってしまい、歩行中のサラリーマンが怪訝そうな顔でこちらを見つめた。 「…幸?」 その白が幸のブラウスの色だ、と気がついたのと、視界の端に横断歩道の信号が点滅してしまうのが見えたのは同時だった。ああ、もうすぐ青になってしまう。けれどもう、進める筈がない。わたしはもう、この子を置いていける筈がない。 「…もうさ、どっか連れてってよ。名前、」 その言葉が落とされた途端、信号が青になるのを捉えたわたしは急いで車を急発進させた。そうして路傍に車を滑り込ませたわたしは再度勢いよくブレーキを踏み込む。さっきよりも大きな音を立てて車が止まる。そうしてそのままわたしは後部座席へとダイブした。 わたしに押し倒される形で、幸は小さく肩で息をしていた。その薄い肩をわたしはまず思い切り抱きしめる。想像していたよりも彼はずっとあたたかかった。 「…わたしでいいの?」 偶然彼の寂しさに居合わせてしまっただけのわたしが、彼の寂しさにつけこんでいいものなのかどうか迷った。そんなわたしを、幸は呆れたように見つめ返してからふっと居心地悪そうに視線を外した。 「…あのさ、」 「ん?」 「よくもこんな体勢にまで持ち込んでおいてそんなことが言えるよね。あんたさ、実は結構馬鹿なんじゃないの?」 言葉の意味を計り兼ねていれば、幸は態とらしくため息をついた。 「…さっきの理論でいくと、今の状況は俺にとって都合がいいってことなんだけど、」 はあ、とため息と共に言葉を吐き出したその唇がいじらしく尖るので、耐えきれずわたしは口づけをした。雨はまだ、やまない。 |