気がつけば、知らない町を歩いていた。それはあまりに自然で、けれど不思議な浮遊感を携えていたので、あ。もしかして夢なのかな、と思った。それほどまでにわたしの意識は突然に、ぽんと知らない町に放り出されてしまったのだ。 思わず立ち竦んだ。わたしは何処へいこうとしていたのだっけ。 「…どうした、名字、」 その声にはっと顔をあげた。そこにいたのはいつもと同じ、草臥れた背広を着た彼だったので、わたしは途端に安心する。ああ、笹塚さんだ… 「……あは、なんか、迷っちゃったみたいで、」 呆れられるかな、と思いながらそう言ってみせれば、彼が「知ってるよ、」と車のキーをしゅるり、まわしてみせたのでわたしは面食らう。 「…だから迎えに来たんだ。」 「…………ありがとう、ございます…」 思いがけない展開に言葉が詰まった。そのまま固まってしまったわたしに笹塚さんが歩み寄ってくる。そうして自分の腕にしっかりと、わたしの手を絡ませた。彼らしからぬ行動にわたしはまた目を見開く。 「…行こう。橋の向こうで笛吹達が待ってる、」 そう言った彼の後ろを、わたしは半ば引き摺られるように歩き出した。斜め後ろから見る彼の顔に表情はなく、感情が読めなかった。けれどひどく不思議な感覚は残ったままだった。それは違和感といっても差し支えのないものだった。 それでもそのまま歩き続けると、遠くにぼんやりと彼の言う橋が浮かび上がってきた。不思議な橋だった。遠目に見てもその外観に丁寧な装飾が施されていることが窺える。それはどことなく浮世離れしていて、まるでこの世のものではないような気さえした。 瞬間、わたしははたと足を止める。それに呼応するように隣を歩いていた笹塚さんも足を止めた。 「……笹塚さん、」 「………何?」 「死んだなんて嘘だよね?」 それは氾濫のように溢れた。思い出が、色が、影が。わたしの頭の中にわっと散った。あまりに突然の出来事に喉がうっと狭くなった。 「死んでるよ、」 ああ、そうだ、と思った。 線香の匂いも、真っ黒な葬列も、遺影も、覚えていた。そうだ、と思う。無理矢理に蓋をしていただけだった。 その瞬間突然、わーっという音が聞こえた。何の音だろうと思ったのは一瞬で、それが自分の喉から発された声だと気づくまでに時間はかからなかった。 何かから解放されるようにわたしは声をあげた。瞼からは大粒の涙が溢れ出していた。笹塚さんは何も言わずに、ただぼんやりとそんなわたしを見据えるだけだ。 「……あの橋を渡ったら、もう会えなくなるんでしょ。道に迷ったわたしを、送りに来てくれたんだよね、」 「すごいな、名字にはわかるんだな、」 そのくらいわかる、と思った。だってわたしがどれだけあなたのことを好きだったのか、あなたは知らないでしょう。 橋の向こうを見た。薄ぼんやりとしていた向こう側が、今ははっきりと見える。橋の終わりは空間を断絶するように、ぴしゃりと終わりを告げていた。あちら側とこちら側が違うものだということは明白だった。 あの橋の向こうには、わたしの生活があって、笹塚さんがいなくなった世界にもわたしのいなくてはならない場所があって、なによりもそれが辛かった。壊れていても、わたしの人生の歯車は勢いをつけてくるくると空回り続ける。だってもう、それを食い止めてくれる人がいなくなってしまったのだから。 「…走り抜けて、いつか本当に止まれなくなったならおいで、」 ついにしゃがみこんでしまったわたしに、笹塚さんのほんの少しだけ困ったような声が届く。頷くことしかできなかった。これで本当にもう、さよならなのだということがわかっていた。 柔らかい体温がわたしの頭に触れる。トントンとリズムを刻み続けるそれを、わたしは泣きながら受け入れることしかできなかった。 そうして、そのリズムがどんどん不規則になり、いつしか消え去っても、わたしはその橋から動くことができなかった。 『名字さん、知ってます?地球の何処かには、どうしても会いたい人と一度だけ会わせてくれる橋があるんですって、』 『…へえ。弥子ちゃんも意外とロマンチストなんだね。』 『意外とってひどいですよ!私のことなんだと思ってるんですか!』 『…あはは、ごめんごめん。…………でもそんな橋があるなら一度でいいから、お目にかかってみたいなあ、』 |