短編2 | ナノ




その日のわたしは急いでいた。それも、雨が降る金曜日だったのだ。ただでさえ人の多い地下鉄に、傘を持った人がごった返していた。だからこそ、普段ならば上手に人波をくぐり抜けるわたしが、あのとき彼にぶつかってしまったのだろうと思う。

「…あ、ごめんなさい、」

時刻は20時40分、映画の開始時刻が10分後に迫っていたわたしは、勢い良く地下鉄の階段を駆け上がり、曲がり角を確認もせずに飛び出してしまった。雨が降っているにも関わらず傘を忘れていたことも、わたしの足を急がせる要因のひとつとなっていた。

「……名字?」

ぶつかった相手の顔も見ず、急いで通り抜けようとすれば、名前を呼ばれ慌てて足を止める。見れば、傘の影から見覚えのある力強い目が覗いていた。

「あ…かしくん、」

かつての同級生は、相も変わらずうっとりとするような美しい笑みを讃えてこちらを見据えていた。瞬間、わたしの頭の中からは映画のことがすっぽりと抜け落ち、しばし見とれてしまう。

「随分とびしょ濡れだ、風邪をひくよ」

映画館までは屋根のない通りが続いており、そこを駆け抜けてしまおうと目論んでいたわたしの毛先からはぽたぽたと水滴が落ちはじめていた。言いながら彼はわたしに向けて傘を傾ける。

「い、いいよ!赤司くん濡れちゃうし…それにわたし、走っていくから大丈夫!」

ぱたぱたと両手を顔の前で振りながらそう言えば、そこからも水滴が垂れた。思ったよりも強まっている雨脚に半ば苦笑する。彼の反対側の肩が濡れはじめていることも気になっていた。

「…そういえば随分と急ぎ足だったね。…もしかして誰かと待ち合わせかい?」

じんわりと濡れていく高そうな彼のスーツを心配していれば、突然そう問われたために再度ぶんぶんと手を横に振る。またぽたりぽたりと水滴が落ちる様を見て、赤司は目を細めて笑ってみせる。その美しい所作にこちらの勢いも尻すぼみになってしまう。

「い、いや…実は映画を見ようと…お恥ずかしい話ひとりで…」
「へえ、この時間だとレイトショーか何か?」
「う、うん…」

わたしの言葉に彼は何やら考え込んでいた。どうしたのだろうかとその様子をじっと見つめていれば、彼は意を決したようにこちらへと視線を向ける。

「俺もご一緒していいかな、」
「え!!!!!」

予想だにしていなかった申し出に思わず声をあげると、彼は些か傷ついたような顔をした。そこではっと我に返る。

「あ、あの、ごめんね、嫌だったとかじゃなくてびっくりして…わたしの方は全然構わないんだけど、どんな映画なのかとかも聞かずにそんな、いいのかなって…」
「ああ、そのことなら気にしないで。折角の金曜日、このまままっすぐ家に帰るのはどうかと思っていたところなんだ。それより急いでいたということはもうすぐ映画の時間なんだろう?」

その言葉にはっと我に返る。慌てて時計を確認すると、映画開始の2分前をさしていた。

「何時から?」
「20時50分!」
「急ごうか、」

その言葉と共にぐいっと肩を引かれ、無理矢理に傘の中に引き込まれてしまう。密着していることへのどきどきやまるで映画のワンシーンのような展開に胸が高鳴るでもなく、わたしはひたすらに自分が傘を忘れたことで彼の手を煩わせてしまっているという事実に申し訳なさが広がるばかりだった。

「それで、なんの映画を見るつもりなのかな?」
「…えっと、割とコテコテのホラー、なんですケド、」
「……へえ、楽しみだな、」

わたしのセレクトは些か彼を驚かせたらしく、彼の綺麗な顔がほんの少しだけ歪むのを肩越しにぼんやりと眺めていた。




「…あの、」

場内はもう暗くなりはじめており、人もまばらとはいえそれなりにいた。物音を立てないように努めながら席に着き、わたしは隣の彼にそっと囁く。

「…これ、使って。その……こんなハンカチしかなくてごめんね。」

でかでかと某夢の国のキャラクターがプリントされたハンカチを手渡せば、一瞬だけ面食らった彼が耐えきれずに小さく吹き出すのが見えた。

「…ひとりでホラー映画見に来るつもりの女の子には、些かアンバランスなハンカチだね、」
「…う、ですよね…」
「いや褒めているんだ、思った以上に名字といると退屈しないよ、」

ありがとう、と言いながら彼はハンカチを手に持った。だが、ほっと安堵したのも束の間、彼はあろうことかそのハンカチでわたしの頭を豪快に拭きはじめたのだ。

「え、ちょっと、赤司君!?」
「どう考えても君の方が濡れているだろう。風邪を引かれたら困る、」
「そんな、だってわたしのほうは自己責任…」

思わず声が大きくなりかけたわたしに、彼は唇に指をあててしーっと合図をしてみせる。薄明かりの中ぼんやりと映し出されるその動作はあまりに綺麗で、わたしは沈黙を余儀なくされた。

「…でもまあ、ありがとう。ありがたく使わせてもらうよ」

わたしの水分をしっかりと吸ったハンカチを持って、大して意味もないだろうに彼はそれをスーツの肩口にあてがった。なんだかんだとわたしの体面を崩さないようにしてくれるなんて、なんてスマートなのだろうとまた見惚れる。

「…まあ、俺もハンカチは持ってるんだけどね、」

前言撤回だ。彼…赤司征十郎は案外、いい性格をしているらしい。





ふう、と小さなため息が隣から聞こえて、わたしはゆっくりと隣の席に目を向けた。映画が終了し、レイトショーだったこともあってか周囲の客はそそくさと席を後にする。だが、彼とわたしは座り込んだままだった。各々余韻に浸っているこの瞬間、映画が終わったからといって無闇に騒ぎ立てない彼にわたしは好感を覚えた。

「…ホラー映画は初めてだったけれど、案外しっかりしているんだね。お陰で楽しめたよ、」

ゆっくりと立ち上がり、伸びをしながら彼はやっと感想を漏らした。その言葉にわたしも頷きながらどことなく安堵する。楽しめてもらえたのならよかった。

「……これ、洗って返させてもらってもいいかな?」

そう言いながら彼が提示したのは、先刻のハンカチだったので、わたしは慌てて首をぶんぶんと横に振る。

「いいよそんな!!大したものじゃないし!!!」

むしろかえって彼に気を使わせてしまったのではないかとわたしはそれを必死に奪い取ろうとする。だが、かつての記憶以上に身長差のひらいたわたしたちの間では、それは至難の業であった。案の定、彼に不釣り合いなそのハンカチはあっという間に彼の鞄へと吸い込まれていってしまう。

「……来週から偶然にも、俺の見たい映画の上映が始まるんだ。よかったら君と見たいんだけど、その口実としてこれを使わせてもらう、ってわざわざ君に言うのはちょっと狡いかな?」
「え……と?」

突然投下されたとんでもない爆弾に面食らっていれば彼はふ、と小さく微笑んでみせる。「バス停まで送るよ、」まるで言い逃げのように彼はすたすたと歩きはじめてしまった。

「ちょ…っと待って!」

2時間近くも隣にいたのに、話せていないことばかりだ。先ほどの言葉の意味を考えながら、わたしはその背中を追いかけてみせる。追いつくまでにまずは、この火照った顔をなんとかして冷まさなくてはならない。そう思いながらもわたしは、彼の家の豪華なベランダの一角に、わたしのあの間抜けなハンカチが陳列されるのだと想像してほんの少し笑う。たぶん話していないことはたくさんある。昔のこと、今日の映画のこと、来週のこと。それは映画館を出てからバス停までの間では到底話しきれないだろう。だから、もしできるならわたしのほうもまた来週、会いたい、だなんて、ね。


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