此処には海がある、酸素だって、ガソリンだってちゃんとある。
「…どうかしたのか、」
この人ならどこへでも連れてってくれる、という思いで乗り込んだこの船で、時折わたしは何処にも行けなくなるような気持ちになる。それは彼に伴う変化などではなく、わたし個人の変化、であって。
「どうもしませんよ、何か変ですか?」
わたしの左側で、何を話すでもなくわたしの伸びかけの髪を梳く男。
ローさんの部屋には、ゆったりと座れる広さのソファーがあって、もっぱらわたしはそこを占領している。何処にも行けなくなった夜は、特に。
言葉数の多くないこの男は、そんなとき決まって、ただ黙ってわたしの髪を梳いている。大して楽しくもないだろうに。
「……別に、」
「そうですか」
飽きることもなく、わたしの髪を梳き続ける彼にそれ、楽しいですかと零す。
「そうだな、歴史を実感できるし悪くねえ、」
「歴史!なんですかそれは、」
彼らしからぬ発言に思わず顔をそちらへ向けると、ローさんは少しバツの悪そうな顔をした。珍しく饒舌な彼の次の言葉を待っていると、不意にこちらへその長い指が伸びてくる。
「初めて会ったときは、このくらいだった」
「ああ…そういえばそうですね、」
彼の指がわたしの毛先よりも幾らか上の部分をさらった。その指が一瞬首筋に触れて、くすぐったさに思わず身を捩った。
「このくらいだったこともあるしな、」
言いながらローさんは今度は、その指先をそのまま下におろし、肩のあたりに触れた。
そうか、確かにそんなこともあった。成る程、歴史とはよくいったものだ。
「…そうですね、1回ばっさり切っちゃったのであの頃の髪は全くもって残ってませんけど、」
「馬鹿言え。人間の細胞ってのははやいのだと数日かそこらで入れ変わんだ、髪以外にも何処にも残っちゃ居ねえよ、」
「ひええ、そんなに早く…」
かつてわたしにはわたしの生活があって、そして彼にも彼の生活があった。
交わる筈のなかった2つの歴史が、こうしてこの部屋で融合している様は酷くわたしを安堵させる。
そういうことなのだとおもう。わたしがローさんの部屋を訪れるのは、ひとりで生きてゆけるわたしとそうではないわたしが此処に確かに居るからなのだ。
床に転がっている医学書、いつだったかわたしが忘れていったブランケット、お気に入りのマグ、アザラシの毛皮の帽子。そうだ。簡単なことだ。わたしの生活はいつからか、此処にあるのだ。
「…たぶん、ローさんとなら、何処へだって行けます、」
「……」
「それはローさんが何処へでも連れて行ってくれるからだし、ちゃんと此処に連れて帰ってきてくれるから、」
言いながら少しだけ体を寄せると、不意に彼の指がわたしの頬に触れた。
嗚呼、此処にあの頃の細胞はきっともうないけれど、覚えている。わたしは、記憶している。彼の感触を、体温を、声を、機微を、なにもかもを。残っていなくてもわたしは、覚えている。
「…お前が何処へでもいけるのは、何も俺がお前を連れ回すからってだけじゃねえ、」
「はい。」
「お前はちゃんと、自分の足で歩ける。自分の意志で選べる。自分で歴史を、積み上げることができる」
「…はい。」
言葉の意味を計り兼ねたわたしは、ほんの少しだけ言い淀む。そんなわたしの様子に気づいたのか、ローさんは優しい手つきでそっと頬を包んだ。
「だからその上で、ちゃんと俺を選べ、」
優しい手つきと裏腹な、幾らか横暴な台詞。
ああ、そうだ。そのアンバランスさがどうしようもなく愛おしいわたしは、こんなところまで来てしまったのだ。
「わかったか、ナマエ。」
「はい。ローさん、」
小さく笑って手を伸ばせば、指先はあっという間に絡めとられてしまった。
此処には海がある。酸素だってガソリンだってちゃんとあって、そして貴方が生きている。
私生活/東.京.事.変
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