○わん | ナノ

32.ご ぼ り 、



「……おれを追いかけてくるよりも他にやることはなかったか?」
「………ありました。他の仲間を呼べばよかったです。浅はかでした、すみません、」

怖い顔をしたままのローの目を見ることができず、下を向いたままナマエがそう言えば、それがローには不服だったらしい。がしりと頬を掴まれ無理矢理に自分の方を向かせると「二度目はねェぞ…」と低い声を発した。
勝手に飛び出したのは自分の方じゃないか、とナマエはそう思ったがその言葉をぐっと抑え小さく頷く。何か言いたげなナマエの様子を察したらしいローはしばらくじっとその目を離すことなく彼女を見据えていたが、「ならいい、」と突然に拘束を解放した。

「…お前の話じゃここは水中だということだったが、ちげぇのか?」
「……そうですね。さっきは一面水で、沢山金魚も泳いでいた筈です…」

ローの言葉にナマエもまた周囲に視線を走らせた。どういうわけか先ほどとは様子がまったく違うのだ。困惑してしまう。
彼女の様子にローは無言で周囲に巨大なROOMを張った。だが、スキャンを行ってみても魚どころか生き物の存在は感知されない。視界を遮る岩がごろごろと転がっているだけだった。

「…なんかまるで、水槽の水を一気に抜かれたような感じです…」
「水槽?」

ナマエの言葉にローはぴくりと反応を示す。どうかしたのだろうかとナマエがちらりと彼の方をうかがえば、ローは何やら上を見上げたまま不敵な笑みを浮かべていた。

「成る程な、道理で何もひっかからねェわけだ、」
「?」

いち早く状況を把握したらしいローとは対照的に、ナマエは不安げな顔で周囲を見回した。先ほどと同様に周囲には何も見えないままだ。

「水槽とはよく言ったもんだ、上を見てみろ、」

ローに促されるまま上をみたナマエはヒッと喉に張り付くような声をあげた。そこには、2つの目玉が2人の動きを舐めるようにじっとこちらを見つめていたのだ。それはまるで水槽の外から金魚を見下ろしていた先ほどのナマエのように。
その瞬間だった。その目がぐるりと一周したかと思うと突然周囲に水がぶわりと溢れた。それは瞬く間に水かさを増し、あっという間にナマエとローを丸ごとのみ込んだ。咄嗟にローが2人の周囲にROOMを展開する。

「………ローさん、」

思わず恐怖に足がすくみ、ナマエはローのトレーナーの端を強く掴んだ。その手が情けなく震えていることに気がついたローがしっかりと無言のままナマエの肩を引き寄せる。思わず彼の方を見やれば、目だけで「絶対に離れるな、」とでも言いたげな視線を寄越された。幸いにもこの空間までは水は入ってこられない様子であったが、ずっとこのままでいるわけにもいかなかった。長時間のオペオペの実の使用が著しくローの体力を削るのだということをナマエは痛いほどに知っているからだ。
どうすれば、とギリリと唇を噛む。自分の撒いた種からローを巻き込み、結局こうして守られている。いつもそうじゃないか、とナマエはじわりと涙が浮かぶのを感じた。ポケットの中には傷薬と毒が1本ずつ、それから小さなナイフがひとつ入っているきりだった。これではこの状況を打開することなどできる筈がない。それでも、と思いながらナマエがその小さなナイフを取り出そうとポケットに手を突っ込んだそのときだった。

「熱っ、」

あまりの熱さにナマエはポケットに入れた手を引っ込めた。何かとてつもない熱量を放つものが、そのポケットに入っているのだった。不思議そうにこちらを見るローの視線を感じながら、今度は慎重にそれを取り出す。触れれば小さく皮膚がじゅわりと音を立てた。

「…なんで、これが…」

それはナマエとローにとって見覚えのある品物だった。だが何故こんなところに…とナマエは自分の目を疑った。それはシャチやペンギンの計らいで、船に飾られていたはずのあの、シャクタにもらった鏡だったのだ。
ナマエのポケットから取り出されたそれは突然、ふわりとナマエの手から離れた。そうしてナマエが「あ、」と思ったのも束の間、こちらを覗き込んでいる目玉に向かい勢いよく飛んでいったのだ。
突然の出来事に2人が呆然とその様子を見つめていれば、突然聞いたことのないような叫びが辺りに響き渡った。とてつもない熱を放つ鏡は、その勢いのままで目玉に突っ込んでいったのだ。悶絶するその目玉の声に呼応するように、周囲の景色がぼろぼろと崩れはじめていた。それはまるでハリボテであったかのように崩れゆき、それに伴って水も少しずつ引いていった。呆気にとられた2人がそのまま呆然とその様子を見つめていれば、たちまちに周囲の様子が薄暗い神社へと変わっていく。それは先刻、ナマエとベポが祭りのために訪れた神社だった。だが、先ほどまでのにぎやかな様子は見る影もなく、その神社はすっかり荒れ果てていたのだ。まるで何十年も経っているかのように。

ナマエはぞっとした。それならば、先ほどまで確かにあった筈の屋台は?人は?どこからが夢だった?もしかしてこれも夢?途端に自分のいる場所が不確かになっていくような感覚に陥る。
けれど。けれど、隣にいるローだけは本物だ、と思った瞬間、驚くほどナマエは自分が冷静さを取り戻すのを感じた。そうだ、色々なものが不確かだった世界で、いつだってローだけは本物だった。昔も、今も。

ぴちゃり、

突然の水音にナマエとローはびくりと体を震わせた。そっと振り返れば、人間と同じくらいの大きさをした巨大な金魚が力なくそこに横たわっていた。その目は片方が焼け焦げており、おかしな匂いを発していた。だが、反対側の目がぎょろりと周りナマエの目をまっすぐに見据える。その目にナマエは「あ!」と思った。その目があの、屋台にいた男と全く同じ目をしていた、と気がついた瞬間、力なく横たわっていた筈のその魚が勢いよく2人に向けて飛びかかってきたのだ。ローの小さな舌打ちが聞こえ、彼がゆっくりと鬼哭を抜くのが見えた。だが、ナマエはしっかりと掴んでいた筈のローのトレーナーから手を離し、するりと器用に彼の手を抜け出すと魚の前に立ちはだかった。ナイフを持った手を思い切り前に突き出せば、ぐしゃりと嫌な音が響き、生暖かい血が飛んだ。息を切らすナマエのナイフの先で、今度こそ魚は動かなくなる。

「…何でそんなことをした、」

そのままへたりと座り込んでしまったナマエをじっと見つめ、無表情のままローはそう問いかけた。はあはあと息を切らしながらナマエは何も言うことができない。そんなナマエから目を外し、ローは今度は事切れた魚をじとりと見下ろす。

「…こいつ、人か?魚か?」

わからなかった。人なのか、本当に魚なのか。けれど敵であることは明白だった。そうして、あのままナマエが何もしなければ、ローが同じようにこの魚を殺していただろうことも。

「……殺さなければ、殺されていました。生きることは、戦争です。だから、仕方のないことです…」

言い訳のように響いたその言葉に、ローはじっとナマエを見返した。

「……そうやって言い訳しねェと駄目か?やっぱりてめぇは殺しに向かねえな、」

それは嘲りや失望でなく、再確認のようだった。情けなく震える自分の手を見ながらナマエはまた唇を噛み締める。その様子を見て、ローがナマエの顔に飛んだ返り血を指で拭う。その優しい所作にはっとナマエは顔をあげた。

「……だから黙っておれにやらせておけと、昔にも言ったよな?言うことが聞けねえのか?」

その横暴で物騒な言葉は、けれど何よりも優しい言葉だと理解していた。理解していたからこそ苦しかった。彼と同じ目線で世界を見つめることができないということが、何よりも悲しく思え、ナマエがふるふると首を横に振る。ローはそこでようやくほんの少しだけ困った顔をした。

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