独神は喋らない。
 正確には発声できない、といったほうが正しいか。呼吸は無論のこと問題ないし、声帯にも問題は見られないとアカヒガは首を傾げた。呪の類いも感じられないと眦を下げたツクヨミに、独神はただにこりと微笑んだ。
 声が出なくても意思の疎通は取れる。独神はそう“言った”。目を確と合わせた者とは、念力のような形で意思を伝えられるのだ。それは多くの者に不思議な心地を与えたが、さらに不思議なことに誰もがそれに温かな印象を受けたという。
 例に漏れず、オモイカネも共感した。後々にして思えばどうしたって奇妙この上ないのだが、彼と目を合わせると疑念も何も吹き飛んでしまう。独神には何かそうさせる魅力のようなものがあるのだと、そう思うしかなかった。

 オモイカネが御伽番に据えられて長い。が、終ぞ声を聞いたことはない。喋るような口の動きは間々見るものの、その口から声が転ぶことはない。読唇術に覚えのあるオモイカネは、それによって目を合わせずとも何を言っているか分かることもあるが、背を向けられては如何ともしがたく。
 不便だと思うことが、つい、ある。独神の思想を知りたいと目で追っては、幼稚な愚かさに首を横に振った。彼が発声できれば、声が聞けぬよりも多くの何某かを知り得るのに、とは傲慢である。些末への無駄な執着である。その声が聞けたとて、彼は語らぬことは決して語らぬ。

 オモイカネが御伽番に据えられてから、それが変えられたことはほとんどない。気が付けば独神の隣にいることが常となり、誰も疑問に思うこともなく。御伽番と書いてオモイカネと読む、などと揶揄した者も居、賛同する者も多数といった状況に陥ったこともあった。
 それほどまでに傍で尽くしたとしても、独神の語るを聞いたことはない。些事を眼差しで聴くばかりの日々。深く気に入られている心を瞳から受け取る毎日は、事ある毎に目の眩むような愉悦を覚えるが。
 不満だと思う己が、いっそ憎い。寵愛を一身に受けていることを知りながら、更なるを求めてしまう浅ましさに嫌悪した。多くの英傑に慕われ、平等を求められている彼が、それを露呈しては不和が生じてしまうのは自明の理。秘されなければならない愛情を、嗚呼、声にしてほしいなどとは。

 ところで、伽といえば寝所で主君となる者の相手をすることも含まれる。夜伽と言い方を変えれば、何をするかなどは語るに及ばない。身分ある者がわざわざその寝所に他者を呼ぶことに、何も意味がないわけがないのだ。色事ばかりに限らないとしても。
 オモイカネは御伽番としてそれを考えないことはなかったが、杞憂であったというべきか。朝に起床の声を望むこと以外に寝所に来るように言われたことはなく、夜に寝所への道を歩くことすらなかった。
 不躾な者は寝所周辺を歩いたりすることがあるようだ。オモイカネはそんな礼を欠く行動を取る気はさらさら無い。呼ばれないということは、求められていないということだ。ならば変な気を回して行くこともない。返って迷惑というものだろう。ただ、寝所への暗い廊下を少しだけ眺めるに留め。

 そうしてある日、呼ばれた。返事が遅れたのは失態だったと深く後悔する。何も房事を求められているとは限らないし、そもそも伽を望まれているとも言えないのだ。他愛ない相談を持ちかけられるだけかも知れない。それはそれで心の揺れ動く事実であるが。
 初めて、夜に寝所への道を行く。高鳴る心臓を抑えようと、何もあるはずがないと言い聞かせる。比較的冷静な己が馬鹿馬鹿しいと目を細めた。ともすればと覚悟していたはずなのに、結局は何も覚悟できていなかった。何もない日々に、夜は他人事だった。
 何事もない風を装って入室するも、二の句の告げないほどに緊張。先ずは何の用かと訊ねて、もし同衾を告げられたら失礼のないよう手順を、などと考えあぐねて口が乾くばかり。知者は惑わず勇者は恐れずというのであれば、己はもうどちらにもなれまい。
 独神は優しく微笑んで、隣に来るよう床を叩いて招いた。オモイカネは従うことしか出来ず、そこに膝を正す。置いた手が震えそうだった。
 やがて頭上に手を置かれ、緩く撫でられる。優しさにふと息を吐くと、間もなく頭を胸に抱かれた。宥めるように背を撫で下ろされるのに、肩から力が抜ける。安堵を覚えてようやく、ただ一言、済みませんとだけ零した。独神はそれに声なくひとつ笑った。
 おもむろに手を重ね、親指の腹で猫の頭を撫でるよう。背にあった手は、いつの間にか彼にしな垂れていた己の肩を抱く。これからどうなるのだろう。何故か他人事のように考えた。
 独神は喋らない。どういうわけか発声できない。だが、呼吸はしている。その吐息で、喉を使わずに耳元で囁いたのだ。オモイカネは何も考えられなくなった。






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