湯に浸かり、月を眺めながら一人、手酌で猪口を傾ける。酒の楽しみ方は数あれど、最終的には風情をつまみにゆっくり味わうのが一等粋なのではなかろうか。あとはこの粋を静かに分かち合える者が一人くらいいてもいい。
 とはいえ今更誰かを誘うのも億劫である。シュテンドウジは黙ってちびちびと酒を呷り続けた。別に淋しさなどはない。今は酒が最良の友であるのだ。
 そこへ人の気配が割り込んで、思わず眉を顰めた。場の雰囲気を壊すような喧しい輩だったらどうしようか。今は静かであるが、人の顔を見るなり急に口喧しくなる者も少なからずいたりする。背後の者がそうだったら、どうしてくれよう。
 いっそ口を開くなり殴って黙らせてしまおうか。そんな不穏な考えすら胸に過らせながら、そっと横目に確認してみると、そこには物静かな男の姿があった。
「――こんなところでも酒ですか」
 呆れたようにその男、オモイカネが言う。シュテンドウジは先の杞憂に安堵するとともに、返事に口の端を吊り上げた。
「こんなところだから呑むんだろうが」
 煌々と輝く月を指差す。彼はそれに軽く肩を竦ませたが、その表情は肯定するような微笑だった。
 そうして彼はやけに離れた場所で腰を落としては、手本のようにかけ湯を始める。前衛で戦うことがあまりない彼の、傷もなく美しい姿態を遠巻きに眺めるのも悪くはないが、まるであからさまに避けているような距離にはつい顔をしかめた。
「何でそんな離れたとこに行くんだよ」
 問いかけると、オモイカネはことりと小首を傾げた。
「一人で静かに呑みたいのだろうと思いまして」
 知った風に言う。どうやら彼なりに気を利かせてくれたらしい。きょとんとする顔に、シュテンドウジは今度は眉尻を下げた。無駄な気遣いに溜め息も吐いた。
「お前がクソ喧しいヤツだったら殴って黙らせてたかも知れねェが、お前は違うだろ? いいからこっち来いよ」
「そんな身勝手な理由で殴るのは止めておきなさい。ですが、そういうのであれば……」
 苦言を呈しつつも、オモイカネは手招きに応じて傍にやってくる。隣に並ぶようにして湯に浸かるのに、シュテンドウジは満足げに笑んだ。綺麗なものは間近で見るに限る。甘く整った顔も、白く肌理細やかな肌も。
「猪口、ひとつしかねェわ」
「私は結構ですよ」
「相変わらず連れねェなァ。呑めねェクチじゃあるまいし」
「まあ、呑めることは呑めますが……」
 オモイカネは言葉尻を濁した。彼は明言をしたことはないが、どうも酒には強くないらしく、飲酒を避ける姿がよく見られた。シュテンドウジも、彼が独神の御伽番として側に座しながらも、その主に勧められた酒に軽く目を回していた様を見たことがある。
 彼の酔いの失態といえば、それくらいのものだ。それだって醜態と呼べるものでも全くない。だが、彼はそれでも、例えひと時の不覚であっても取りたくはないようだ。真面目過ぎるからなのか、はたまた矜持か。あるいは両方。
 彼が酔いに酔ったらどうなるものか。大いに興味のあるところである。この隙のない美貌の崩れる様に、いっそ気を狂わせてみたい。長らく覚えのない淫靡な陶酔を、彼の一挙一動から引き出されてみたいと。
 しかしながら、彼はまだそれを許しはしないだろう。もしかすれば程度のほんの僅かな可能性でもって、空の猪口を差し出す。目を丸くするオモイカネに、シュテンドウジは徳利も揺らして見せた。
「一杯くらいはイケんだろ。ちったァ付き合えよ」
 更に差し出すのに、オモイカネは困ったように眉を下げる。が、引くつもりなく、早く取れと顎でしゃくると、苦笑して受け取った。
「では、一献だけですよ」
「そうこねェとな」
 笑って、シュテンドウジはオモイカネの手に移り渡った猪口に酒を注ぐ。零れそうなほどになみなみと注ぐのに彼は眉を顰めたが、諦めたようにそっと口をつけてゆっくりと呷った。
 晒された喉の上下するのを見る。ふと息を吐いてから、緩く笑むまでの刹那。美味しい、と吐息ほどの声で呟きながら唇を湿らせる舌を見、劣情が過った。
 中が空になったかどうか知らぬまま、彼の手から猪口を奪う。突然のことに目を見開くオモイカネ。何かと言葉を発する暇も与えず、彼の唇をも己のそれで奪った。
 驚きで無防備になる口唇を割り開き、舌を挿し込む。咥内は酒気に満ちて、馴染みのある心地。だが、酒の味の染みていない舌は柔く幼気で、簡単に絡め取られた。
 上顎を撫でて、舌の輪郭をなぞって、吸って甘噛みして。思う存分に蹂躙してから解放すれば、蕩けた瞳と目が合った。上気した頬は湯のせいか、口吸いのせいか。抵抗しようと置かれた胸元の手は、力なくそこにあった。
「初だな」
 甘く潤む目の縁を、指でそっとなぞりながら言う。すると、からかわれたと思ったか、恥ずかしげに目を逸らされた。
「手練手管の貴方とは違うんです」
「手練手管ね。まァ、そうだがよ」
 なおも横を向いては、いまだに仄赤い頬を髪で隠すオモイカネ。その柔らかな髪をかきあげ、露になった耳に口を寄せた。
「拗ねんなよ。可愛いって言ってんだ」
 息を吹き込むようにして囁くと、彼はふるりと肩を震わせる。拒否を告げようと持ち上がった手は、だが、次を請うように手首の辺りを掴んでくるだけに終わった。
「拗ねてなどいません」
「そうかい。なら、こっち向け。もっと可愛がらせろ」
 すると、一言二言噛みつかれるかと思いきや、オモイカネは思いの外、素直に向き直ってくる。髪は湯気に濡れて色を濃くし、頬は白桃もかくや。艶やかに潤む瞳、唇、吐息、彼の全て。嗚呼。






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