部屋に入ると、先ず雪見障子の向こうの坪庭に目が行った。点在する苔生した庭石を、万両の赤い実が覆うように頭を垂れている。鈴生りのそれを突きに来ているのは雀だろうか。 そこから横へと目を移すと、床の間が目に入る。縦長の掛け軸には達筆な文字、生け花は水仙が中心と見えた。 独神より命じられて訪れた遠征先の旅館の一室である。アメノワカヒコには建築の何某などは分からないが、雰囲気からしてそれなりのところなのだろうことは察せられた。町の賑やかな喧騒とは打って変わった敷地内の静けさには、返って緊張してしまうぐらいだ。 思わず室内を見回すアメノワカヒコを余所に、後から入ってきたオモイカネがさっさと荷を下ろして席に着いた。はっとして、アメノワカヒコも荷を下ろす。彼が床の間の向かいに座ったので、自分は床の間側に、彼に向かうようにして座った。 「静かで良いところですね」 「そうだね」 「こんな良い部屋を用意していただかなくてもよかったのですけれど」 そう呟くオモイカネに、アメノワカヒコは(やはり良い部屋なのか)と心中で呟いた。 遠征の内容は、鉱山で天青石を見つけるといったもの。それだけならば力自慢の英傑を向かわせるべきものであるのだが、詳細を聞くに石の真贋の見定めも必要になってくるのだという。そこで白羽の矢が立ったのがオモイカネで、アメノワカヒコはその補佐だ。 天青石の鑑別は本職も時に見誤るほど難しいらしい。とはいえ八百万界きっての知者であるオモイカネならば、本職に勝るとも劣らない目利きの業を見せてくれるであろう。だが、その補佐に自分を宛がった独神の判断には、正直、首を傾げた。この仕事に対して眼識は愚か、体力や腕力すら不足ではないのかと思うのは自然だろう。 しかし、遠征は二人で向かわせると言うのである。浮かんだ疑問を問うより早く了承の旨、承った。今にして思えば、目先の欲に眩んだといっても過言ではない調子だった。オモイカネと二人きりで遠征など、渡りに船もいいところ。 喜び勇んでとはおくびにも出さないが、今に至る。勿論、仕事はしっかり務めるつもりだ。独神の思惑がどこにあるのかは知れないが、任された以上、裏切ることは許されない。 「仕事は明日からの話になりましたが、アメノワカヒコさんはどうされますか?」 さてと問われて、アメノワカヒコは思案に目線を彷徨わせた。 時刻は八つ時を過ぎたあたりか。夕食までにはまだ時間が有り余っている。体力も別段、もう歩けないというほど削がれてもいない。とはいえ、時期はようやく初春といえるかというような頃合いだ。 「明日に備えて、今日のところはゆっくりしようかな。町を見て歩きたい気持ちもあるけど、もうすぐ暗くなってしまうし」 「それが賢明ですね。町を散策するのは、仕事が終わってからでもできますし」 どうぞ、といつの間にか浴衣を手にしていたオモイカネから、それを手渡される。そうか着替えるのか、と思った次の瞬間、ぎくりとした。 何を隠そう、オモイカネとは恋仲である。のだが、多くの英傑の目がある本殿でおいそれと触れ合うこともできず、早くも一か月が経とうとしていた。故に、独神からの命を二つ返事で了承したのは言うまでもない。彼が自分たちの現状を含めて今の状況をどう思っているかは知れないが、アメノワカヒコとしては大いに期待して止まないのだ。 期待するとはいえど、流石に仕事の最中に大それたことをするつもりはない。ただ恋人らしい時間を過ごしたかった。寄り添い合い、愛を囁き合って、手のひらで慈しみ合いたい。いまだに当たり障りない距離でしか睦べない現在、恋仲であることを、今一度、確かめたかった。 あくまでそんな純粋な気持ちでここまで来たのだが、アメノワカヒコは浴衣を握り込む。想い人が肌を晒しつつ着替えているのに動揺しない男はいないだろう。布の擦れる音にすら血が沸きそうになる。斜め後ろで繰り広げられているのは、きっと壮絶な光景だ。なるべく見ないようにと背を向け半眼で着替える。 「……ふふ」 そこへ背中にかけられる微笑に、思わず肩が跳ねた。疚しい気持ちを知られてしまっただろうか。近付いてくる気配に内心、震えていると、背後までやってきたオモイカネに項の辺りを触れられる感触がした。 「襟が曲がっていますよ」 労わるような手つきで、曲がっているらしい襟を正してくれる。そのまま前に来ては嫋やかともいえるような指で袷を整えると、花の綻ぶような笑みを見せた。 「はい、男前のできあがりですね」 他愛のない冗談をころりと零すのに、アメノワカヒコは眩暈を覚えて軽くたたらを踏む。何て神(ひと)なのだろう。床の間に生けられた黄水仙よりも可憐で、坪庭に植えられた万両の実よりも愛らしい彼。平生は朔風のように凛とした眼差しが、今は東風に溶けるみ雪のように甘く柔らか。そんな微笑みひとつで、この心に春の嵐を呼び起こすとは。 「ありがとう……。……オモイカネ殿」 「はい、なんでしょう」 「できれば、こういうことは、俺以外の人にはしないでほしいかな……」 肩を掴んでは、情けなく懇願する。だが、頼みでもしなければ、誰に対しても平等で公平な彼はその手を伸べるだろう。本人はそんなお人好しではないと否定するが、認めた相手には手をかけることを厭わない性質も持ち合わせている。彼が目をかけることを、勘違いしない輩がいないとは限らないわけで。 「そうですねえ……。取り敢えず、温泉にでも浸かって汗を流しませんか?」 しかし、オモイカネは取り合う様子を見せず、そんなことを言ってするりと手から逃れていく。そんな程度のことを、と馬鹿馬鹿しく思われただろうか。確かに曲がった襟を直すという部分だけを見れば、些事に何を必死にと思われても仕方がないが。 返事を待たずに出入口へと向かうオモイカネを、アメノワカヒコはとぼとぼと追いかけた。恐らく弁明する必要があるか。彼ならば言葉を尽くせばきっと分かってくれるだろう。時に読心術すら心得ているのではないかと思えるほど他者の心理を的確に突いてくる男だ。理解して、そういう意味だったんですねと笑ってくれるに違いない。 ふと出入口の戸の前で、オモイカネが立ち止まる。戸でも開かなくなっただろうか、入るときは問題なく開いたはずだが。問おうとして、ちらりとこちらを窺うように振り向いた彼に、言葉を飲む。 「ねえ、まるで新婚旅行みたいですね」 こんなこと、誰にでも思うことではないと思いませんか。頬を淡く染めて、春を告げる。 冬眠から目覚めたばかりの獣のような緩慢さでは、どこか身軽な彼を捕らえること叶わず。その足を止めることができなかったことに、少しばかり奥歯を噛んだ。せめて道中、誰ともすれ違ったりしなければいいのだが。今きっと物凄くだらしない顔をしているだろうから。 |