花曇りの合間を抜けて見せた快晴。柔らかな色の青空に、桜の花がぽつりぽつりと咲いている。ようやくといった春爛漫の気配に、隣のオモイカネの表情も桜花に負けず劣らずの綻びを見せた。
「桜が綻び始めましたね」
「ああ、そうだな」
 ひどく穏やかな気持ちで、まだ枝ばかりの桜の木を見上げる。満開になれば枝などまるで見えなくなるくらいに咲き乱れる大木。そのときが待ち遠しくなって、タケミカヅチは返事に吐息を混ぜた。
 隣の彼と、今このときのように二人並んでその様を眺めたい。彼も同じ気持ちだと嬉しいのだが、と再度、横顔を伺い見ると、今度は先ほどとは一転の花曇り。何かあったのだろうかと、つい顔を覗き込みかけた。
「そろそろアレの算段をしなければなりませんね……」
 返事のように、オモイカネが呟く。やや濁し気味の言葉に、タケミカヅチは首を傾げた。
「アレ、とは?」
「毎年この時期、恒例のアレですよ」
「この時期……」
 言われて、桜を見上げた。春。桜。この大きな枝ぶりの下、満開の桜花に覆われて。
「花見、ですよ」


 長らく独神の御伽番を務めているオモイカネは、その類まれな手腕のために、もはや本殿の財布を独りで握るほどの状態である。全ての権限を持ち得る主であるはずの独神でさえ、こと金のかかることに関しては彼に許可を求めだすほど。その度にオモイカネは「権限は貴方にあるのですから」と決定権を押し返すのだが、不安げな表情をされるためについ首肯してしまうらしかった。
 そういうわけで、本殿の金繰りはオモイカネが担っている。たった一人だけに負わせる仕事ではないことは承知のことではあるものの、かといって他に誰もやりたがらないのも事実。何せこの本殿にはある病が蔓延しているのだ。
 「事あるごとに祝いだ宴だと。本殿で行える数少ない娯楽の一つでもありますし、私も無下にしたくはないのですけどね。界貨も無限ではありませんから、たまには清貧に甘んじでいただきたいものですよ。酒、高いんですよ。というか、高い酒しか呑まなくなったと言いますか。贅沢極まりないんですよ。そうして舌ばかり肥えて、それなのに酒の失敗は学習してくださらない。ああ、もう本殿で造酒したほうが安上がりな気がします。自分で呑む分は自分で造るようにいたしましょうか……」とぼやきながら高速でそろばんを弾き、溜め息を吐く姿は。
「まるで家計に頭を悩ます妻のようだったよ」
「何の話だ?」
 図らずもオモイカネの愚痴に付き合ってしまったフツヌシは、そのことを丁度良くすれ違おうとしたタケミカヅチを捕まえては、その愚痴のお裾分けをした。ついでにからかいのタネも仕込んでみたのだが、武骨で色気に欠けるこの男には難しかったようだ。こくりと首を傾げられ、訝しまれる。
「花見の金策に頭を抱えていたってことさ」
 お話にならないが、まあいいか。フツヌシは肩を竦めながら端的に伝えると、夫は「むう」と一唸りした。
「しかし、本殿の金繰りはオモイカネ殿にしかできない仕事になってしまっているしな……」
「だからって任せっぱなしにしておくのもどうかと思うがね。出来ようと出来まいと、何か出来ることはないかと聞くのが夫……いや、出来る男じゃないのかい」
「何か聞き捨てならない言葉が聞こえた気がしたが、問わないでおいてやろう。というか、さっきもオモイカネ殿を妻だとか言っただろう。人をからかうのもいい加減にしろ」
 気付いていたのか。フツヌシは声を出さずに笑った。問わないと言いながら問うている矛盾が可愛らしい。気に食わないと言わんばかりのタケミカヅチのしかめっ面。嫉妬にも見える表情に、いい顔をするようになったものだと親心のように思った。
「間違ったことを言ったつもりはないよ。そんなことより、ほら」
 フツヌシは一室を指差す。そこではオモイカネが机上の紙とにらめっこをしている。筆尻で顎をしきりに突く様子は、無論、タケミカヅチにも見えることだろう。
「彼が口淋しそうに筆を咥えている。早く口を吸ってやるといい」
「なっ……!?」
 ぽんと背を叩くと、タケミカヅチは案の定、顔を真っ赤にさせた。件の彼は筆を咥えてはいないし、咥えるような質でもないのはタケミカヅチも知るところだろう。だが、単純にからかうために、頬を突く。
「てっ、適当なことを言うな!」
「はっはっは、いいから行った行った」
 しっしと払う動作をして、タケミカヅチをオモイカネの元へ行くように促す。タケミカヅチはなおも何かを言いたそうに唇を戦慄かせたが、結局何も言えずにオモイカネの元に向かった。
 その場から去る振りをして、タケミカヅチの様子を遠くから眺める。声をかけたらしいタケミカヅチに、振り向いては微笑むオモイカネ。二言三言か、会話を交わしてからタケミカヅチがすごすごと部屋を出てくるのに、フツヌシは呆れて肩を落とした。


 桜の花もおおよそ開いてきて、満開まであと数日といったところだろうか。フツヌシは廊下に落ちてくる花びらの軌跡を辿って、夜桜を眺めた。庭の桜は大木なだけに、もはや満開といっても遜色がない。
 本殿の空気も浮かれ出して、酒好きの英傑たちは元より、そのほかの賑やかし要員たちもこそこそし始めた。また一悶着でも起こってそうだな、とフツヌシはにやける。どこに首を突っ込んでやろうか。考えただけでわくわくした。
 企みを押し殺して廊下を歩くと、その先からオモイカネがやってくる。彼を見ると、反射的にタケミカヅチを思い出して、フツヌシはつい笑みを零した。惚れた弱みか、彼のこととなるとすぐ百面相をするタケミカヅチが面白くて仕方がないのだ。
 からかいのネタの仕込みに、少し話でもしてみるか。フツヌシが手を振ると、オモイカネはそれに気がついて愛想のいい笑みを浮かべた。
「やあ、オモイカネ殿。花見の支度は順調かな?」
「ええ、目処が立ちまして、一安心してます」
 オモイカネはさらに笑む。言葉の印象に反して、自信ありげな微笑だ。口では文句を言ったり謙遜したりしつつも、必ず成し遂げる心積もりでいたのだろう。真面目で優しい男だ。
 それよりも、タケミカヅチとオモイカネとで自慢げな笑顔が似てきた気がして、声を上げて笑いたくなる。夫婦は似てくるというが、この二人も心を寄せ合いすぎて似てきたか。
「それは良かった。みんな楽しみにしているからね」
 笑いを押し殺して続けると、オモイカネは軽く肩をすくませた。
「開催すると言わないうちから浮き足立っているようでしたけどね」
「ふふ、貴殿ならどうにかしてくれると信じているのさ」
「さて、どうだか」
 とはいうものの、満更でもなさそうに表情を綻ばせた。
「……ああ、そうだ。フツヌシさんにお聞きしたいことがありまして」
 逆に、珍しくオモイカネから問われ、フツヌシは首を傾げる。
「ほう、私に?」
「ええ。タケミカヅチさんのお好きな酒は何なのかと思いまして」
 本当に珍しい問いだ。この男からあの男の話を持ち出されるとは。しかも彼ならば本人に問うことも厭わないだろうに、それをわざわざ他者である自分には尋ねてくるとは。
 フツヌシは好奇心を掻き立てられるそれに、うずうずする体を押さえんと顎に手をやった。口元が歪むのは押さえきれなかった。
「ふむ。それを知ってどうするつもりなのかな?」
「どう、と言われましても。タケミカヅチさんに贈るだけですよ」
「……本当にそれだけかい?」
「だけですが」
 さすがである。この男からあの男の酒の話に、艶やかな内容を期待したが、そうは問屋が卸さなかった。天下のオモイカネ殿はその無垢な心で、純粋な感謝をお伝えしたらしい。それでも男なのだろうか。
 思い当たる品をいくつか上げてみると、酒の価値を分かっているのか何なのか、感心するように頷いてみせる。知識だけはある男だ、あるいは舌も肥えているのかも知れないが。
「晩酌を口実に部屋に呼び込むなどすればいいのに」
 タケミカヅチと同様、色事の経験は甚だ少ないと見える。溜め息混じりに期待していたことを言ってしまうと、オモイカネはキョトンとしてからポンと手を打った。
「なるほど、そういう手立てがありましたか。では、早速試してみます」
「えっ?」
「何か?」
「あ、いや、うん、頑張ってくれ給え。きっとタケミカヅチも喜ぶ」
「ありがとうございます」
 オモイカネは満足げに微笑むと、軽く会釈をしてその場を後にした。
 急展開にフツヌシはオモイカネの背を呆然と見送る。なるほどということは、彼も男としてそれなりのことを考えていたのだろうか。否、あの無邪気な笑みからは、艶めかしさなど毛ほども感じなかった。
 知恵者のオモイカネ。だが、知識があるだけで経験に乏しい彼は、天然ともいえる初さと疎さも持ち合わせている。それは則ち勘が鈍いということであり、思考が肝心なところにまで至らないのだ。だからこそ、こうして下世話な提案も聞き入れてしまうのだろう。下世話な話だと解っていないがために。
 タケミカヅチの執心を知るからこそ、あの至らなさに不安を覚える。人の恋路をとやかく言うつもりはないが、せっかくの浮いた話だ。もっと盛り上がってほしいものである。幸せな話は増えて損はないのだし。


 花散らす夜が訪れた。一等枝振りの良い桜の木の下に独神を据え、花見が始まる。もうすでに相当酔っている者もいれば、花より団子の者もおり、初っ端から喧々囂々の様相を呈していた。
 フツヌシは席の端のほうに座り、杯を傾ける。酒に当てるための金策に口を尖らせていた男が用意したのは、舌の肥えた英傑をも唸らせる美酒。何だかんだ言いながらも手を抜かない仕事ぶりは、流石としか言いようがない。
 その本人は乾杯の音頭がなされる際にも姿を見せなかったが、場がいい感じに暖まってきたかという頃にようやく現れた。出来上がりつつある英傑たちを見て、そっと苦笑を零すオモイカネ。末席にいたフツヌシは、それを横目に見ることができた。
「やあ、やっと姿を現したね。さあ、駆けつけ三杯だよ」
 空いている盃を差し出すと、オモイカネは困ったように首を横に振った。
「勘弁してください。潰れてしまいます」
「ああ、タケミカヅチの傍でないと酔えないかな」
「貴方、ここのところそればかりですね。そういえば、そのタケミカヅチさんは?」
 オモイカネはきょろきょろと辺りを見回す。姿を探すのは、その男の名前が挙がったからか、それとも恋人だからか。
「恋仲になってまだ日も浅いし、大いに気にしているのではないかと思ったまでさ。タケミカヅチなら向こうで女性陣に囲まれているよ」
「貴方の言いようですと、心が傾きすぎだと思うのですがね」
 フツヌシの指差す先にタケミカヅチを見つけ、オモイカネは表情を綻ばせる。だが、返事といい、表情といい、想いの丈を図りかねる色気のなさだ。かつて宴の席でタケミカヅチに押し倒されたときに見せたものが嘘のように思えてくる健全さ。
 女性陣に囲まれている想い人を目にして平然としていられるのは、深い信頼があるからだろう。それは健気で良いことでもあるが、それだけでは恋は熟れない。愛は深まらない。タケミカヅチが見せたように、彼も強い執着を抱き、表にしなくては、タケミカヅチからのただの一方的な想いに終わってしまう。
「心を傾けすぎるくらいでなければ、恋とは呼べないのだがねぇ……」
 フツヌシの呟きに、オモイカネはやや怪訝気味に振り向いた。いっそ憎らしいくらいに澄んだ眼だ。この若草色の瞳がいつか恋情に燃える時がくるだろうか。そしてそれを我が唯一無二の半身は見えるだろうか。
 いくら願えども、この様子では近々には難しそうだ。タケミカヅチの激情に触発されて恋に目覚めたものの、その心はまだ淡く薫(くゆ)るばかりのようである。感情的に釣り合いが取れていない。
 やれやれ、仕方がない。フツヌシは心中で零し、盃を置く。空いた手でオモイカネを抱き寄せ、間近になった頬を思わせ振りに撫でる。タケミカヅチの側からよく見えるように。
「まあいい。こんなところで油を売るほど暇なら、私の相手をしてもらおうかな」
「な、何するんですか。放してください」
 オモイカネは戸惑って、小さな抵抗を見せた。それをフツヌシはより強い力で押さえ付ける。軍神として、戦いの神ではない彼を手込めにするのは難しくなかった。
「こらこら、逃げないでくれよ」
「別に逃げませんけど、抱き寄せる必要はないでしょう?」
「相手をしてもらうって言っただろう。そういうことだよ」
 さらに体を密着させて、耳元で囁く。さすがに身の危険を感じたか、びくりと体を強張らせるのに、フツヌシは笑みを吹きかけた。
 いびつなやり取りを、酒で浮かれた雑踏は気付かない。ただ一人、彼を想う者を除いては。
 激憤の気配をひしひしと感じながら、動揺で動きの鈍っているオモイカネに形ばかりの接触を続ける。久方振りの強い殺気だ。悪者にされるのはまあ慣れているが、まだ死にたくはないものだ。
 間もなく、予想以上の力で腕を掴み上げられる。その腕の一本もくれてやるから、少しは進展してくれやしないだろうか。


 タケミカヅチはオモイカネの腕を掴み、花見の席から離れた。彼の戸惑う声が後ろから躊躇いがちにかけられるが、受け答えしてやれる心の余裕はなく。社殿の裏に来る頃には、それもなくなり大人しくついて来る足音だけになった。
 激昂は収まらない。女性陣に囲まれて、おざなりにすることもできずに相手をしていたが、少々無理でも振り切ってくればよかった。オモイカネが気になって視界の端で探してみれば、宴席の隅で有らぬ光景。フツヌシがオモイカネを襲う様など。
 フツヌシのことは何だかんだ言っても信頼していた。深く分かり合えていると思っていた。だからこその裏切りの様相に、形容しがたい怒りが渦巻く。信頼しすぎたのかと。よもやそんな男ではあるまいと思い込みすぎたのかと。
 何よりオモイカネの青ざめた横顔にぞっとした。何もかもから守ってやりたいと思うほどの恋人を一人にし、仲間に求められているからと目を配ることもせずに、怖い目に遭わせた。守ってやれなかった。
 フツヌシにも自分にも怒りが沸く。奥歯が軋むほどに。
「あの、タケミカヅチさん、どこに……」
 恐る恐るといった様子で、オモイカネが再び声をかけてきた。タケミカヅチは怒りのあまり肝心の彼を忘れかけてしまっていたことに気が付き、足を止める。心中は憤懣やるかたないまま。だが、それで彼を不安にさせては元も子もない。
 踵を返して、彼を引き寄せては強く抱き締めた。黙って腕の中に収まる体躯。危機に傍にいることもできなかった頼りない自分の抱擁を享受してくれている。嬉しくて、愛おしくて、さらに強く抱き込んだ。
「……済まない。俺が傍にいてやれなかったために」
 謝罪すると、返事がなされたことに安堵したのか、オモイカネは肩の力を抜いた。
「いえ、そんなことは……」
「フツヌシには後で灸を据えておく。君に手を出した罰だ」
「そんな、そこまでせずとも。抱き寄せられただけで、他には何もされてませんし……」
「だが、君を怖がらせた」
「言うほどではありませんから。ただの酔った勢いで――」
「――フツヌシを庇うな」
 思わず声を荒げた。オモイカネが気圧されたように黙り、その沈黙にはっとする。やってしまった。
 だが、あまりにフツヌシを庇おうとする言葉に、嫉妬心が湧いたのも事実だ。彼としては仲違いを起こさないようにと思ったのだろう。自分としても、フツヌシを完全な悪者にしたいわけではない。しかし、それでも。
「あいつのことは庇わなくていい。……そんなに庇わないでくれ」
 懇願する。その心を、例え他意はないとしても、他者にあまり傾けないでほしい。その眼に映すのも、その口にするのも、その手に触れるのも、その全てを他の者に向けないでほしい。
 顔を上げ、やっと彼の顔を見る。不安げな眼差しをしている。それでも愛しい面差し。額を擦り合わせて、希うように望みの言葉を繋げた。
「他の奴のことは、考えないでほしい……」
 まるでみっともない独占欲だ。情けなくて、オモイカネの眼を見れなくなって目を閉じた。いつだって結局はそれだ。彼を独り占めしたい気持ちがあって、誰にも触れさせたくなくて、安易に触れた相手に理不尽なほどの激憤を向けてしまう。
 ましてや彼は平等だ。その知を頼ろうと伸ばされる手を選ばない。誰に対しても分け隔てなく接し、微笑を向ける。それは大衆の中においては然るべき態度であって、彼の行動は正しいのだ。それを許せなく思ってしまうなど。
 狭量だ。と、吐きかけた溜め息は、口を塞がれて押し止められた。宛がわれるはオモイカネの唇。突然のことに、思わず閉じられている眼を凝視した。
 やがて離れていく花顔。頬に差す色を認めて、それ以上に己の顔に熱が集まった。
「ごめんなさい。私は私なりに貴方のことを考えているつもりでしたが、全く考えられていなかったんですね」
 なされる謝罪に、タケミカヅチは言葉を失った。色を匂わせる頬に反するような悄然とした声が、胸元に落とされる。
「いや、責めているわけでは」
「いいえ。貴方の優しさに、私は無意識に甘えてしまっていたんです。今まで通り、変わらずにいても大丈夫なのだと」
「当たり前じゃないか。変わる必要なんてない。君はそのままでいいんだ」
 そのままの君が好きなのだと、言い連ねようと発しかけた声を遮るように、オモイカネは緩く首を振る。眼前で揺れる黄金の髪、その下の瞳がどこか縋るようにタケミカヅチをひたと映した。
「貴方の想いに応えたいのです。ですが、どうすればいいのか正直わかりません。私は、貴方へのこの気持ちをどう表現したらいいのか、分からない……」
「オモイカネ殿……」
「本当に初めてなんです。こんなにも言葉にならない感情を抱くのは……」
 オモイカネは腕を背に回して、甘えるように身を擦り寄せてきた。肩の辺りに頬を押し当て、体温を求めるように密着してくる。予期しない接触に、タケミカヅチは一気に熱を上げて固まった。思考すらも止まった。
 そんな挙動を、一体どんな表情で為しているのか。柔らかな髪が邪魔をして、面差しは窺い知れない。だが、かかる吐息は熱を帯びて、彼もまた血を沸かせているのか。
 タケミカヅチとて恋う相手に何をすればいいのか分からない。戦ばかりにかまけていた己が、そんな情緒などいくら知れようか。知神の彼が分からないことならば、なおのこと知る由もない。
 しかし、今は抱き締め返すべきだろう。腕の中にしまい込んで、その全てを享受するときか。
「貴方にならば、私の全てを預けられます。だからどうか、教えてください。貴方の想い、貴方の体温を……」


「やあやあ、タケミカヅチ。おはよう。昨夜はどうしーーおっと!」
 宴会開けの気怠げな朝。見かけたタケミカヅチに声をかけると、何の挨拶もその他の一言もなく拳を突き出され、フツヌシは辛くも避けた。彼の目が座っている。分かってはいたが、相当怒らせたようだ。
「とんだ挨拶だね」
「剣でなかっただけ感謝してもらいたいぐらいだな」
 そう言いながら、拳を解いた手を降ろされる。実際、刃を向けられるほどの憤怒を受けた気ではいたが、そうしなかった辺り、彼の中では収まるところに収まったのだろう。おおよそ恋人の説得を受けたからであろうが。
 そうでなくても彼は身内に甘いところがある。何だかんだいいつつ、フツヌシとは双璧を成して今日、解消となった試しがない。幾度となく怒らせてはその話が上がるものの、結局は許すのだ。今回のように。
「で、昨夜はあれからどうしたんだ? 何もないとは言わないだろうな」
 許されたところで昨夜の動向を聞いてみると、タケミカヅチは先の勢いをどこへやったか、すいと顔を背ける。そしてたっぷりの沈黙のあとに、ぼそぼそと答えた。
「……別に、何もない」
 ぶっきらぼうな返答。だが、赤らんだ目元は隠しきれておらず、その言葉は明らかに嘘と見れた。
「ほう? 何もない?」
 顔を覗き込む。すると反対を向いて逃れようとする。追いかけて覗こうとすれば、再度逸らされる。小さな鬼ごっこ。
「――ッ、だから何もないと言っている!」
「ぐふっ!」
 二度三度と繰り返したところで、業を煮やされて拳を腹に見舞われた。膝をつくフツヌシを振り切るように、タケミカヅチはその場から逃げていく。遠ざかる荒い足音。見え透いた動揺。
 我が半身ながら、恥じらいかたが手酷い。とはいえ、あの様子を見るに、何かしらの変化や進展はあったようだ。友の恋人に手を出すなどという下衆な男を演じた甲斐があったというものだ。
 タケミカヅチを追いかけた先の本殿で、オモイカネが御伽番の仕事に精を出している。相変わらずだ。だが、タケミカヅチと顔を合わせたオモイカネが表情を綻ばせるのを見て、フツヌシはほくそ笑む。望むべくは二人の春爛漫である。






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