――春。 くしゅん、くしゅん。 二連続のくしゃみにそちらを向けば、お伽番であるオモイカネが口元の両手をやっていた。ちらりとこちらを窺い見た彼と目が合い、彼が照れ隠しのように笑む。彼の後ろの遠く向こうに見える満開の桜のごとく、その頬が染まった。 「済みません。何でしょうね? 噂でもされているのでしょうか。二度のくしゃみはあまりいい噂をされないですが……」 とは言いつつも特に気にした風もなく、最後は独り言のように呟いて、膝の上の文書の束に向き直った。ぱらぱらと捲って、丁寧に内容を確認していく。早くもそれに集中し始めたようで、黙した彼に独神も再び手元の文書に目を戻した。 しばらく紙の捲る音だけが響いた。麗らかな春の日差しが足元にまで差し込み、暖かさと静けさに眠気を誘われる。春眠暁を覚えずとはよく言ったものだ。文書を持つ手が疎かになる。ひと眠りしてしまいたい。 くしゅん。 再度のくしゃみにはっとして、思わずまたそちらを見た。うとうととしていたのを咎められたような気になって目を遣ってしまったのだが、彼はそうとは思っておらず、殊更頬を恥じらいに染めた。 「ごめんなさい……。花粉症、でしょうか……」 と言った側から、彼は膝の上の文書の小さな山を崩して、慌ててそれを戻す作業に取り掛かった。 さて、くしゃみの数と噂については諸説が存在するが、三度目以降に関してはいずれも同じことを繰り返している。三に惚れられ四に風邪。春めいた話にどこか縁遠い彼ではあるが、くしゃみの噂はなかなかどうして仄甘いようだ。 ――夏。 茹だるような暑さが続いている。ある地方では長い日照りに干ばつ一歩手前らしい。そのくせ湿気は嫌に高く、吹き出る汗が乾くことなどひと時たりとてなかった。 そんな暑さで気分は屍の独神の傍で、お伽番のオモイカネもまたくったりとしていた。いつもはしゃんと正座しているのに、今に限ってはその足を崩している。畳に片手をつき、気だるげに団扇を扇いでは、頭(こうべ)を垂れた。蜜色の髪が団扇の動きに合わせてふわふわと揺れた。 「さすがに……暑いですね……」 彼の呟きにはいつもの覇気がなかった。元より優しい彼の声に覇気と言えるほどの覇気はないようなものだが、それにしてもなお力がない。この夏の暑さは天将の彼からも悉く体力を奪っているようだ。下手な悪霊より質が悪いのではないか。 独神はオモイカネの呟きに返事をすることもできぬまま、ただ手持ち無沙汰に彼を眺めた。ゆらゆらと揺れる前髪の下で、いつもは涼しげな瞳がどこか茫然としている。外気の熱に晒されて上気した頬。長い襟足が喉元に鬱陶しそうに張り付き、ざっくりと開いた胸元の露わな肌に汗が伝い落ちた。 「これだけ暑いと扇いでも大して涼しくありませんが、それでも扇がずにはいられません……」 眦を下げる彼は、外からの日差しから逃げるように、こちらへと少し移動してくる。そうしてこちらを見ては、少し困ったように笑んだ。 「主さんも熱中症にならないよう気を付けてくださいね。ああ、そうだ。麦茶でも入れましょうか。ユキオンナさんが主さんのために冷やしてくれているはずです」 彼女を呼びに行ってきます。と立ち上がり、部屋を出ていくオモイカネ。夏の強い日差しに彼の髪が透けて光るの見つめ、見送った。 ――秋。 「戻られましたか。お疲れ様です」 一通りの見回りを終えて戻ると、用を言い渡して花廊に向かわせていたオモイカネが一足早く戻っていた。その手にはいつもの書類などはなく、代わりに紙の包みを抱えている。何だろうかと眺めていると、オモイカネが「ああ」と返事をした。 「先ほどウカノミタマさんが来られまして、主さんにと。焼き芋だそうです。直接お渡ししたかったみたいですが」 どうぞと渡される紙包みから、少し熱いくらいの熱が伝わってくる。焼き芋の甘い香りを想像していた鼻に、それが届くよりも早く別の甘い香りがして、ふと顔を上げた。 どこから香るのだろうか。香りの出所を探して、鼻を鳴らしながら辺りを探る。そうして周囲を嗅ぎ回ると、どうやらどうかしたのかと目を瞬かせるオモイカネの、その柔らかそうな頭から香っているようだ。そうとは知らない彼は、戸惑うように距離を置こうとした。 逃げ腰の彼を留めて、頭に手を伸ばす。小さな金木犀の花が、彼の黄金の髪に紛れて慎ましく花弁を広げている。そっと払うと、ぱらぱらと小雨のように落ちてきた。 「あ……。そうでした、花廊の金木犀の木に頭を引っかけてきてしまったんです」 思い出して答えるオモイカネ。そうは言うのものの、ただ頭に花を乗せただけでは傍から分かるほど香るまい。確かに強い芳香を放つ花ではあるが、言ってもふたつまみほどの花の量だ。かと言って嘘を言う神でもなし、香りが移るほど長く木の下にでもいたのだろうか。 髪から肩へと小花の雨。一通り払い終えると、彼はどこか恥ずかしそうに笑んだ。 「済みません、ありがとうございました。落ちた花は私が掃除しますので、主さんはゆっくり焼き芋を食べていてください」 金木犀の甘い香りを残して、オモイカネが部屋を出て行く。まるでそれは彼そのものから香っているかのよう。彼の容姿の華やかさを思うと、金木犀は彼には役不足に思えるが。 秋だ、と独神は今更のように実感した。ようやく鼻に届いた焼き芋の匂いに、俄かに口の中が潤う。早く戻ってこないだろうか。戻ってきたら、彼とこの秋の味覚を分け合いたい。 ――冬。 寒い。 寒いという言葉が何かにつけて口をついて出てしまうくらい寒い朝だ。外は案の定、雪である。外からははしゃぐ声が聞こえる。犬は喜び庭駆け回ると言うが、自分はどちらかというと猫とともに炬燵で丸くなりたいものだ。 そう思いながら廊下を歩いていると、縁側でしゃがみ込んでは何かを見下ろしているオモイカネの姿を見つけた。 「ああ、主さん。おはようございます」 独神の気配を察して顔を上げたオモイカネが、淡く微笑んだ。 「見てください。どなたが作ったか、雪だるまがあります。可愛らしいですね」 寒さで仄赤くなった指先が、縁側の下を指差す。大人の握り拳大の雪玉がふたつ、重ねて置かれていた。南天の実で施された眼が、外をじっと見ていた。 年若い英傑が作ったものであろう。確かに可愛らしいが、たったひとりではどことなく淋しさが漂う。もうひとり“友”となるものを作ってやってもいいだろうか。 思い立って、独神は床に腹ばいになっては手の届く範囲の雪を掻き集めようとした。隣でオモイカネが驚いた声を上げたが、今は聞き流しておこう。同じくらいの大きさの雪玉を作り、重ねて雪だるまを作る。 さて、次は眼か。と体を起こしたところで、オモイカネがいなくなっているのに気付いた。呆れてどこかへ行ってしまったか。お伽番として何かと傍に居てくれる彼ではあるが、そういうときもあるだろう。とは思いつつ、姿を探す。 「――主さん」 外からの呼びかけに、はっとして振り向いた。オモイカネがいつの間にか外に立っていた。 「眼がいるでしょう?」 差し出された手には、南天の実がふたつ。読めていましたよと言わんばかりの笑みに、つられて笑んでしまう。この神はこれだからいけない。 |