九、
 タケミカヅチの腕の中にいながら、何故、彼なのだろうと考える。恋愛感情を持ち合うのは男女間だけであるなどという偏見を持っているつもりはないが、それにしてもどうして彼なのだろうか。彼という存在のどこが、何が、自分の心にどう影響したというのだろうか。
 恋は理屈ではないとは、誰もが口々に言う。感情自体が理屈で説明しきれるものではないのだから、そういう結論が出るのも致し方ないことであろう。理性で理解していても、本能と直結する感情は理解したがらないときがある。オモイカネにとってそれは、些か煩わしいもの。
 ――非常に煩わしい。どうして彼なのか理解できないのに、感情は、体は、無性に彼を求めてやまない。名を呼ばれれば幸福に苛まれ、好意を口にされれば歓喜に喘ぎ、触れられれば肌が恍惚とする。どうしてなのか。
 ここの所、そのようないくら問うても答えの出ない疑問ばかりだった。他者は自身を理解できずとも、自分は自分のことをしっかり理解できると思っていたのに、ここぞとばかりに裏切られている。そして幾度となく投げかけた問いは、彼に触れられるだけでいとも簡単に溶けて消えた。
(心地よい……触れられているだけなのに……。どうしてこの方はこんなにも優しくて温かなのだろう……)
 藤の花の香る中で、強く抱擁される。人の体温など皆一様で、高が知れている。だが彼は特別だ。そうと分かっていても、彼の温もりが一等心地よくて愛おしい。
 あの宴の夜が来るまで、自分の中にこんな感覚があるとは思いもしなかった。どこか気にかかる部分はあったものの、それまでは彼は殊に親しい同志以外の何者でもなかった。少なくともそういう気持ちでいたのだ。
 だのに急に口付けをされて、一変した。直に伝わる体温に背筋が戦慄いた。唇を吸われる感覚に思考をも奪われ、その隙に体を倒され見下ろされて、その状況その光景に新たな感情が起き上がった。
 そのままあらん限りの熱でもって満たされたい。いつかに覚えた触れてほしいなどという他愛ない欲求とは違う、苛烈なものだった。優しくされて束の間の幸福を得たいという、誰もが安易に抱くようなものとは一線を画すそれ。
(今は、満たされている……。不思議だ。少なくともあの夜のあの瞬間は、もっと激しいものを欲していたはずなのに……)
 恋しくて堪らなくなってしまった焦燥も、枝垂れる藤の花の向こうで否定されるのではないかという恐怖も、嘘のように掻き消えている。あれほど苛んだあらゆる感情だったのに、その全てが不可思議なほど凪いでいる。彼の腕の中にいるだけなのに、無上の幸福を感じられた。
 これが恋情によるものなのか。彼の言動のみならず、存在にすら感情を揺さぶられる。ともすれば身も心も狂ってしまいそうな怖ろしさも内包していたように思う。そんな、誰か一人のためにもはや言葉にして表すのも難しいまでに心が揺れ動くのを、人は恋と呼ぶのだろうか。
 タケミカヅチが髪に、頬に、唇に、優しく触れてくる。オモイカネはそれら全てを恍惚として受け止めた。その心地よさに思考を止めた。この喜びを前に、もう何もかもがどうでもよくなってしまう。ずっとこのままでいたい。
 彼の肩に頭を預けながら、そよ風に揺れる藤の花を眺める。そしてふと過った言葉に、しばし目を閉じた。
「……タケミカヅチさん、藤の花言葉を知っていますか?」
「いや……、知らないな」
「いくつか存在しますが、その中のひとつ『決して離れない』……」
 告げると、より一層強く抱き締められた。その腕の強さに息が詰まりそうになる。胸の内も幸福で満ち足りて、いっそ溢れてしまいそうだ。まるでそれらに押し出されるように、切なくも熱い溜め息を吐いた。
「そう、そのまま、離れないでいてくださいね……」
 勿論だ、という言葉を耳元に聞く。彼の腕の中、決意を表すかのような力強い抱擁に、自らも肩に頬を摺り寄せた。
 ずっとこれが欲しかったように思う。四阿でそっと触れられたあのときから、こうしてもらうことを心の片隅で待ち望んでいた。自分でも気が付かないまま、この愛情に飢えていたのか。得も言われぬ充足感が、求めていたのが昨日今日の話ではないことを物語っているかのようだ。
 ならば、いつから彼に恋をしていたのだろう。四阿で触れられたときからだろうか、戦場にて彼の腕の中で目覚めたときだろうか。それとも初めて会ったときからすでにこの心は囚われていたのだろうか。自覚がなかったせいで判然としない。
 ただ一つ言えるのは、自覚も起きないほど静かに、タケミカヅチという存在が自分の中に染みこんでいったのだろうということ。恋どころか自分の感情にすら疎かった自分には気付きようもないほど、少しずつ降り積もるように大きくなっていたのだ。
 タケミカヅチに唇を乞われて目を閉じる。触れ合う唇の感触に、思考が蕩けてしまいそうになった。実を結んだ恋とは、こんなにも甘いものなのか。






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