見下ろす彼の顔は驚きの表情を呈していたが、それにしても初めて見るような顔に見えた。無論、褥に寝転がる彼を見下ろすなど、そうそう見れるものではない。だが、それでも感じる違和感は、自分の心境の変化のせいか。見ている顔はいつも目にしている神籬の顔のはずなのに。 自分に余裕などあるはずがないことは自覚しつつも、冷静に事を分析しようとしてしまうのは性分か。珪孔雀石は己の心身の相反する状態を、頭の片隅で考えた。唸るような心臓の音や、全身を駆け巡る血の感情に反して、思考はどこまでも鋭く冴え渡るかのよう。身体が熱を上げるからこそ、頭にはその分の熱が行かないのか。 すぐに冷静さを取り戻したかのような彼には、今の自分はどのように映っているだろうか。鬱蒼とした濃い緑の色をした前髪を、額から払うように掻き上げる。露わになる瞳は澄んだ湖水の底のようで、その心の純度の高さを表しているように見えた。 「怒ったり、しないのだな」 白い頬を撫ぜながら問う。神籬は少し不思議そうに瞬きをした。 「何故、俺が貴方に怒るなどと?」 「普通は怒るだろう。突然こんなことをされては」 問い返しに答えれば、彼はゆるりと目を泳がせた。それは戸惑いから来るものではなく、思案げな目のやり方だった。 「そうですか? 確かに、どこの馬の骨とも知らない輩にされれば、俺も黙ってはいませんが」 するりと零された言葉に滲む信頼に、ふと胸が締め付けられる。仲間からは、友からは、何らの危害も与えられるはずはないと、もはや当然のように思っている口振り。そこまでの信頼を寄せるようになってくれた彼を相手に、自分は何という裏切りの行為を為そうとしているのか。 心を許しているからこその無防備な唇が、いっそ憎らしい。少しくらい警戒でもして抵抗してくれれば、こちらもこれ以上のことを考えずに済むのに。とはいえ抵抗されれば、それはそれでこの胸にある種の蟠りを投げ打つことになるのだろう。我侭だ。目前の無垢な心に対して、己はどれだけ我侭で強欲で浅ましいのだろう。 何もせず黙した珪孔雀石に、神籬は訝しむ視線を送りだした。困惑気味の様子は、ただそれだけなのにこの目には可愛らしく、愛おしく映る。やはり触れてしまいたい。その身体隅々の、奥まで触れて、この腕の中に永久に閉じ込めておきたい。叶うならば。 「神籬……」 「はい」 「……抵抗、しないのだな」 「さっきと似たようなことを聞くんですね」 神籬は余裕の滲む苦笑を零した。 「特に嫌だという気持ちはありませんよ」 「そう、か」 「むしろ、そうですね……」 そう言って、言葉を探すように目線を泳がせる神籬。一通り部屋を眺めた後に、目線を合わせてくる。 「少し、嬉しい、でしょうか」 思いもよらない言葉に、珪孔雀石は碌な反応もできず言葉も息も詰まらせた。 「はは、俺でも貴方をそんな風にさせることができるんですね」 楽しそうに笑う彼は、褥で吐く睦言にしては些か無邪気過ぎる言葉を紡いだ。珪孔雀石はバツの悪い思いで軽く咳払いをすることしかできず、二の句も告げられない。 大体、分かっていて言っているのだろうか。言ってしまえばその身を蹂躙しようとしているのに、彼は平然とこの身の下にいる。まさか閨事を知らぬほど純粋ではないと思うが、一体、何をどれだけ考えているのか。 色に欠けたやり取りに引きかけた熱。それを引き戻そうとするかのように、神籬の手が、その顔の脇に置いた手に重なってきた。思わせぶりな弧を描く唇。一見して何てことはない表情のはずなのに、どこか蠱惑的に見えた。 「いいんですよ、俺は。貴方になら」 そうして告げられる返事に、一気に熱がぶり返して頭にまで駆け上った。せめてもの歯止めを吹き飛ばすかのような言葉に、焼き切れそうな思考が言葉など操れようもなく、衝撃に身体が動かなかったのが僥倖だ。 己が衝動的に動き出すような性質ではなくて、本当に良かった。渦巻く欲求に息を止め、しばし冷静さを取り戻そうとする。だが、そうして取り繕った余裕など、いつまで保つものか。 頭の中で打ち鳴らされる心臓の音に、理性を突き崩されているような心持になりながら、神籬を間近に見下ろす。やはり初めて見るような顔に見える。こんなにも近付いたのは初めてだからだろうか。 |