眼下に八百万界の山脈を見る。風を受けながら広大な土地を眺めるのは、若干の懐かしさもあって心地がいい。しかしながら動かない景色というものは些か退屈で、ニギハヤヒは早く自身の船を直そうと決意を新たにする。
「こんなところにいたのですか」
 声をかけられて振り向くと、オモイカネが来ていた。どうしたのかと問えば、姿が見えなくなったものでと答える。心配して探してくれたのか。さり気ない優しさに胸が温かくなった。
「ところで、何故そんなところにいるんですか? 危ないでしょう」
 オモイカネは距離を保ったまま近付こうとせずに問うてくる。己の立ち位置を鑑みれば、それも最もである。切り立った崖の縁とあっては、おおよその者がそうするであろう。好奇心に負けて進み出ても、足が竦む者も出よう。だがニギハヤヒには高さに対する恐怖心はさほどない。
「ここからの眺めが少し懐かしくてね。ついぎりぎりのところまで来てしまったよ」
 問いに答えると、彼は得心の行った相槌を打った。
「怖くないのですか」
 ちらりと崖の向こうを見て、彼は再度問う。ニギハヤヒの見ているものがどんなものかと思ったのだろうが、彼の居る場所からでは空以外何も見えまい。
「怖くはないな。慣れているからだろうけど」
 船の上から、あらゆる高さの景色を見てきた。無論、船の中のほうが今いる場所よりもはるかに安全であろうが、高さに対する恐怖という点ではどちらも同じである。その旨の答えに、オモイカネはそうですかと相槌を打った。
「きみも来てごらん。おれに掴まっていいから」
「命綱もつけていない貴方に掴まっても、危険なことには変わりないのですが……」
 とは言いつつ、苦笑気味に誘われてくれる。やや躊躇いがちに近付いてくる彼を、ニギハヤヒは隣に迎えた。
「風が、けっこう吹き付けてきますね……」
 煽られる髪を押さえながら、彼は呟くように言った。
 そうして見下ろす八百万界の大地。山の起伏、川のうねり、広がる緑に点在する人の住まい。彼の若葉色の眼にはどのように映るのだろう。取るに足らない風景だろうか、それとも命の営みを垣間見るか。
 盗み見た横顔からは何も窺えない。ただじっと崖下を見つめていた。
「……船からなら、大地がどんどん後方へ流れていって、景色が移り変わっていくのを眺めていられる。きみにも見せたいな。飽きることのない世界の様相を」
 目に浮かぶ色とりどりの世界。進みゆく時の流れに乗って、あらゆる場所を旅してまわった記憶が脳裏に蘇る。ひと時でさえ同じ顔を見せない景色を、彼と共有してみたい。同じ景色でも、知に長ける彼の言葉を以てしてどのように表されるか。考えただけでも心が躍る。
 瞬きの間に夢想していると、隣でオモイカネが小さく笑った。いつの間にかこちらを見ていた目が、優しげに細められている。
「それは楽しみですね」
 どこか無邪気に、されど静謐に。その様子はニギハヤヒには可愛らしく見えて、堪らず腕の中へと抱き寄せてしまった。
 すぐそこは中空の危うげな足場でのことに、とっさに恐怖を覚えたオモイカネがしがみつくように手を背に回してくる。だが強く抱き締めると安堵したのか、呑んだ息を耳元でそっと吐いた。
「あ、危ないじゃないですか!」
 即座に冷静さを取り戻した彼が咎めてくる。やや色をなした頬はほのかに赤い。それは何だか別の光景にも見えて、思わず口元を緩めた。
「すまない。でも大丈夫さ。こうしてちゃんと掴まえているから」
「ですから、命綱をつけていない貴方に掴まえてもらっていても、意味がないのですよ。一緒に落ちたらどうするのです」
「それは……困るなぁ……」
 困るのでは済まされないと、オモイカネはなおも口を尖らせる。一瞬、彼とともに落ちるのならばそれもいいかもしれないと思ったのは、秘密にしておこう。






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