四、 タケミカヅチがオモイカネと何やら談笑している。八百万界きっての美神とも噂されるオモイカネと並ぶタケミカヅチというもの妙な組み合わせのように感じるが、それでいて馴染んでいるようにも見えるのは、この社において彼らが古参として英傑たちを率いてきた実績があるからか。 (美神ではなく知神だったかな? まぁ、どちらでもよいか) 当人の知性が容姿に表れるのはよくあることだ。知の化身としての確かな能力と自身は、彼の姿態から百花繚乱のごとき美を醸していた。 対する我が半身は武神である。武勇に優れてはいるが、お世辞にも知性に溢れているとは言えない男だ。戦における知識は無論それなりに有してはいるが、所詮はその程度だろう。隣の知神と比べてしまえば、あまりにも取るに足らない。 それぞれ司るものは正反対と言ってもいい。だが、だからこそ噛み合えるのだろうか。仲睦まじく会話を続ける二人の、タケミカヅチの柔らかな笑顔を離れたところで見つめながら、フツヌシは溜め息に似た息を吐いた。 「お二人はとても仲が良いみたいですね」 いつの間にか隣に来ていたククリヒメが、嬉しそうに呟く。個々の良縁を結ぶことを天命とする女神には、二人の様子はとても好ましく見えるようだ。縁結びの神としての勘なのか、はたまた女のそれなのか。いずれにしろ嗅覚のよさには脱帽ものである。 「そうだねぇ……」 フツヌシは腕を組んだ。タケミカヅチとは兄弟とも言え、双璧とも呼ばれるほど長い付き合いだ。その自分がこれまでに見たこともない類の笑みを、タケミカヅチが見せている。それも自分にではなく、オモイカネにだ。 真紅の眼に宿る、その表情に映る、仄甘い面影。兆した春を喜ぶべきか、自覚のない芽吹きに呆れるべきか。悩ましいことである。あまつさえ傍らの知神すらも、その心の雪解けに気が付いていない。 「……ご不満そうですね」 ククリヒメがこちらの顔をそっと覗い見ながら言った。 「不満はないさ」 「喜ばしいお顔には見えませんが」 「喜んでいるよ。複雑ではあるがね」 要領を得ないと言わんばかりのククリヒメに、フツヌシは僅かに苦笑を零した。 「お互い、あれだけ惚れ合っているというのに、自覚がないというのだから困る」 フツヌシの言葉にククリヒメはきょとんとしたが、即座に理解してえっと鋭い声をあげた。 「あのお二人が……?」 俄かに色めき立つククリヒメに、フツヌシはやれやれという言葉を飲み込む。ふわりと淡く染まる白磁の頬は何とも可愛らしいものだが、円らな瞳の奥に燃える高揚には疲労のようなものを覚えた。 「余計なことはしないでくれよ」 「余計なこととは?」 「そっとしておいてやってくれってことだよ」 どこか納得のいかない様子で、ククリヒメは口を尖らせた。せっかくの浮いた話に背を押したくなる気持ちも分からなくはないが、今はまだその時ではないだろう。当人たちが自覚してからが本番なのだから。 何だかんだと理由をつけては酒宴を開きたがる輩がいるお陰で、危機的状況にありながらも宴がよく開かれる。息抜きも必要だと笑う独神の大らかさも手伝って、一度提言された宴が止められることはほとんどなかった。 今回はどのような理由でもって開かれたか、残念ながら覚えてない。些細なものだったような気もする。きっとそうだろう。覚えていないのだから、そうなんだろう。フツヌシは酔いの回り始めた頭でそんなことを思いながら盃を呷った。 隣に座っているタケミカヅチは珍しく深酒をして、船を漕ぎだしている。潰れる一歩手前だろうか。空の盃を呷った。二度目だ。 「タケミカヅチさん、珍しく深酔いしてますね」 どこからともなく現れたオモイカネが珍しそうに、困り気味の表情で言った。この期に及んでまだ一口も酒を口にしていないのか、全くの素面の様相である。 「いい飲みっぷりだったよ。貴殿にも見せたかったぐらいだ」 「翌日に響かなければいいのですがね」 オモイカネはそう言いながら、手にした湯呑み茶碗に白湯を注ぐ。それをタケミカヅチの前に置き、肩を叩いた。 「お酒はもういい加減やめて、こっちにしてください」 「ん……ああ……」 唸り声のような返事をしたタケミカヅチが、促されるがままに湯呑み茶碗を手に取る。一気飲みして空になった底に、オモイカネが追加の白湯を注いだ。 「甲斐甲斐しいね」 からかい気味に言ってやると、察した彼は呆れ顔で言葉を返した。 「貴方がやってくだされば、私も助かるんですけどね」 「私がやるよりも、貴殿がやったほうがタケミカヅチも喜ぶだろう」 「何故そうなるのか分かりませんが、貴方にも潰れられると困るので、もうそれくらいにしてください」 オモイカネはフツヌシの手からもにべなく盃を取り上げ、代わりに湯呑み茶碗を寄越した。容赦なく注がれる白湯は、清酒に似て非なるもの。酒の酌ならば色気があったものをと思うが、彼はその容姿に反して色気とはどこかほど遠い人物だった。 「やれやれ、ゆっくり酒も飲ませてくれないとは」 「もう十分飲んだでしょうに。そんなに飲みたいならどうぞ。二日酔いになっても知りませんから」 「冷たいね。もっと優しくしてくれてもいいんだよ。そのタケミカヅチに――」 「――オモイカネ殿」 フツヌシの言葉を遮るように、タケミカヅチが突然オモイカネを呼んだ。はいと返事をしかけたオモイカネの声をも阻んで、両手で彼の頬を包む。 「君は何故、俺がいるのにフツヌシにばかり話しかけるんだ」 やや呂律の回らない調子で、タケミカヅチが言った。その向こうでオモイカネが何のことだと言わんばかりに呆気に取られている。フツヌシもタケミカヅチの思いもよらない言動に、ただ呆然とした。 「俺を、俺だけを見てればいいのに。その眼に映るのは俺だけでいい」 露わにされた独占欲。言い募ったタケミカヅチは、身を乗り出し、相手の顔を引き寄せ、これでもかと近づく。タケミカヅチの後ろからではあるが、それはどう見ても口付けをしていて、フツヌシははっとしてからゆっくりと片手で顔を覆った。 当人に自覚がないだけであって、タケミカヅチがオモイカネに恋をしていることは、少なくともフツヌシの眼には明らかだった。タケミカヅチにそのつもりがないからこそ、これまで何もなかっただけで、酒が入った今、何も起こらないわけがなかったのだ。酔っていて思考が鈍っていたせいか、そこまで考えが全く至らなかった。 誰かが倒れるような音に目線を向ければ、タケミカヅチがオモイカネを押し倒している。事の進み具合にフツヌシはさすがに酔いが醒め、むしろ若干血の気の引く思いがした。宴も終わりの時を迎えて、早々に部屋に戻った者もいれば潰れて寝ている者もいるが、まだ起きて飲んでいる者もいる。複数の目線があるこの状況下で、この状態は不味い。 「た、タケミカヅチ、落ち着け。ここは自室ではないよ」 慌ててタケミカヅチを羽交い絞めにして引き剥がすと、彼は身を捩らせた。 「離せ、フツヌシ。邪魔をするな」 「わかったから、後にしよう。ほら、明日も色々とやることがあるだろう。そろそろ休まないと支障をきたしてしまうよ」 言っても、タケミカヅチは要領の得ないことを唸って駄々を捏ねた。仕方なく彼を引きずって、フツヌシはそそくさと宴会場から抜け出す。まさか泥酔するとこんな暴挙に出るようになろうとは、長い付き合いながら知りもしなかった。とはいえタケミカヅチに誰かに恋情を向けるなどということも、これが初めてなのだが。 退場間際に伺い見たオモイカネの様子を思い出す。まさに咲き乱れた花の色を、このタケミカヅチが見たら何と思うだろうか。フツヌシは完全に潰れた片割れを見下ろしながら、小さく苦笑を零した。 五、 頭痛とともに目が覚めた。頭痛の理由を探ってみると、昨晩の宴でシュテンドウジとスサノヲにやたらと煽られては飲まされた覚えがある。馬鹿なことをしたな。後悔先に立たずの言葉が痛みと並んで過った。 とはいえ仕事はしなければならない。遊んだ分だけ働かなくては、こうした休息を与えてくれる独神に申し訳が立たないだろう。タケミカヅチは重たい頭を引っ提げて、いつものように着替えてから自室を出た。 清々しい朝である。当初は閑散としていた兵舎周辺の庭も、今では庭木が植えられて花が綻びかけている。かつての荒れ地が見違えるようだ。それもこれもオモイカネが提案から生まれた結果。お互いに顕現されたばかりで慣れない空気の中、距離感を探るように話し合ったのがついこの間のようでもあり、懐かしい気持ちもある。 小さな思い出に浸りながら澄んだ空気を吸うと、頭痛が少し和らいだ気がした。 「おはよう、タケミカヅチ様」 不意に声をかけられ、振り向いた。ウシワカマルがにこやかにやってくるのを、タケミカヅチも笑顔でもって迎える。 「おはよう、ウシワカマル君」 「昨夜は深酒されたみたいですが、二日酔いなどはしてないでしょうか」 「実は、少しな。だが支障はない」 「ならよかった」 そこまで言うと、ウシワカマルは意味深長そうな笑みを浮かべた。 「ところで、オモイカネ様には会われたましたか?」 彼からの予想もしない名前に、タケミカヅチは一瞬、返事に詰まった。今し方、問われた人物を思い出していただけに、微かな動揺が胸に走る。 「……いや、会ってないが」 「そうですか」 「何かあったか?」 「いえ、覚えていないのならいいんです。では」 とは言いつつ、どこか思わせぶりな笑み。タケミカヅチは胸騒ぎにも似たものを抱いたが、確認する術もなく、その場を後にした。 日々の習慣として本殿に赴き、独神に挨拶と本日の予定を伺い、今日一日の己の身振りを考える。その折々で奇妙な視線を感じ、タケミカヅチは何とも言えない居心地の悪さを感じた。 ジライヤからは「まぁ、頑張れ」と言われ、ヤマトタケルからは「上手くいくといいな」と肩を叩かれ、意味の分からない声援に身を縮ませるしかない。問えば皆一様に覚えていないのかと答え、それ以上は口を噤まれてしまう。答えの出されない気持ちの悪さは、問えば問うほど募っていった。 (一体何なんだ……) そんな目線と問答を半日の間に繰り返し、早くも疲れが全身を襲った。錬金堂のお庭番を命じられたものの、そういうわけで今一つ身が入らない。薄暗い堂の隅に座り、深い溜息を吐く。 「どうした、そんな溜め息を吐いて。貴殿らしくもない」 お庭番の相方であるフツヌシが、訳知り顔で隣に座った。 「どうしたもこうしたもない。見てれば分かるだろう」 組んだ手の上に額を乗せる。二日酔いの頭痛が酷くなった気がした。 楽しそうに笑うフツヌシに苛立ちつつ、いちいち相手にするのも面倒で、タケミカヅチは黙り込んだ。頭が重たい。だが考えずにはいられない、今日の急な周囲の変容。 考えられるとすれば、昨夜の宴だろう。昨日のまでは何事もなかった。少なくとも自分の勘づく範囲では何の変化も感じられなかった。だのに今日の朝になっての、この現状だ。他に何の理由も思いつかない。 誰しもが覚えてないのかと言ったが、確かに昨夜の宴では後半の記憶がない。側でフツヌシが上機嫌で飲んでいたことは、最後の記憶として――ここまでくると何が最後かも分からないが――残っている。 そういえば誰かに白湯を入れてもらったような気もするが、一体誰だっただろうか。可能性としては側にいたフツヌシが高い。本人をちらりと覗い見れば、彼は楽しそうにこちらを見ていた。 「……君、何か知っているだろう」 「勿論。貴殿のことなら何でも知っているよ」 「冗談は止せ。そうじゃない、昨夜のことだ」 問うと、彼は手を組みその上に自身の顎を乗せた。 「そうだな、そのことも知っているよ。側にいたからね」 「何があったか教えてくれ。もう気持ちが悪くて仕方がない」 半ば縋る気持ちで語気も強めに頼んだ。奇妙な目線に晒されるのも、答えの出されない問答を繰り返すのも、覚えのない応援をされるのも、もうこりごりだ。誤解が生じているのならば、全力で弁明しよう。例えそれが全英傑を相手になるとしても。 そう覚悟してタケミカヅチはフツヌシを見たが、彼は何も言わずただタケミカヅチを見つめる。それはからかうなどという悪戯な悪意のある眼差しではなく、真摯でどこか穏やかだった。 「……貴殿のためを思って言う。それは自力で思い出したほうがいい」 期待を裏切る言葉はいやに優しく、タケミカヅチは怒ることもできずにそれを受け止めた。 「……俺は、何かとんでもないことをしてしまったのか」 「ある意味、衝撃的ではあったかな」 追い打ちをかけるような返事に、タケミカヅチは地面に沈まんばかりに項垂れる。頭上からフツヌシの楽しそうな笑い声をかけられ、あまりの他人事の様子に怒りを通り越して悲しくなった。 「――その様子だと、オモイカネ殿にはまだ会っていないようだが」 フツヌシの口から出てきた名前に、タケミカヅチは今朝のウシワカマルを思い出した。ウシワカマルの何かを心得たような笑みと、オモイカネの名。あのとき感じた胸騒ぎを思い出して、垂れていた頭を持ち上げた。 「オモイカネ殿……」 「彼に聞いてみたらどうだ」 「……だが、お庭番を」 「適度に休息を取るのも大事だと思うがね」 優しく背を叩かれて、弾かれたように堂を飛び出した。当てもなく飛び出した敷地内は、やけに広く感じた。 「いい加減、花が咲いてほしいものだね」 六、 いつもならば独神の傍に控えているオモイカネだが、今日に限ってはその姿がなかったように思う。考えてみれば、毎日のように顔を合わせていた彼を、今日は顔どころかその姿すら見ていない。すれ違っている。まるで逃げ隠れされているかのように。 戦術所を覗いてみた。知の神である彼は、書庫のある戦術所を好んで訪れている。暇(いとま)をもらって書物でも読んでいるかと思ったが、彼どころか人っ子一人いなかった。 花廊に向かった。お伽番として社内を見回る癖のついた彼は、折を見てはあちこち見回っている。お庭番と話でもしていれば連れ出してしまおうと思ったが、四阿にも花の影にもいなかった。 霊廟に駆け込んだ。使われている様子のない廟室だが、全ての部屋をくまなく覗いて回った。歩き慣れた廊下を一人で歩く違和感。彼が傍にいないのがこれほど心をざわつかせるものかと、たたらを踏むように階段を駆け下りた。 兵舎を訪れた。まさかとは思うが、もしかしたら二日酔いで寝ているかもしれない。彼が昨夜、飲んでいたかどうかをも記憶にないが、可能性はないとは言えない。部屋に向かって声をかけ、不躾だとは思いつつ障子を開けてみたが、中はもぬけの殻だった。 失礼を承知で本殿に飛び込んだ。奥の座に独神が一人、ゆったりと座っている。どうかしたのかと問われ、つい何でもないと返事をする。何でもないなんてことはないことを、きっと独神は勘付いているだろうが、何も言わないでくれた。 (――ああ、一体どこにいるんだ、オモイカネ!) 敷地内をいくら歩き回って探しても、彼の姿が見当たらない。錬金堂にも戻ってみたが、いるのはフツヌシのみで首を傾げて来ていないと言うばかり。手当たり次第に出会った英傑に尋ねてみれば、ちらほらと目撃情報はあるものの、行方を追っても立ち去った後。 胸騒ぎは焦燥に変わり、恋しさに気が狂いそうだ。どれだけ息が上がろうとも、疲労で足がもつれようとも、会いたさに足を止めることができない。こんなにも自分の感情に追い立てられるのは初めてだった。それほどの存在になっていたことにも、初めて気が付いた。 だが身体は想いに反して重くなっていく。限界を感じて壁に手をついた。雨垂れのように汗が落ちていく。酸素が足りないと肺が暴れる。膝がそんな自分を嘲笑っている。思うようにいかない己の身体に、タケミカヅチはただ歯噛みした。 「――やだ、すっごい汗じゃない」 容赦なく降りかけられた声に、タケミカヅチは緩慢にそちらを見ようとした。だが顔を上げたところに水をかけられる。突然のことに声を上げることもできず、呆然と水を呼びだした主であるツクヨミを見た。 「ツクちゃん!」 「何よ。手加減したわよ」 ツクヨミの隣にいたアマテラスが彼女の行動を咎めるも、当の妹は口を尖らせてそっぽを向く。ツクヨミはそうして姉のことを嫌う言動を取るが、それでも一緒にいるのだから、この姉妹は仲が良いのか悪いのか。それとも姉妹とはこういうものなのか。 「ごめんなさい、タケくん。これで拭いてください」 アマテラスから差し出された手拭いを、タケミカヅチは躊躇いがちに受け取った。彼女の優しい笑みに促され、濡らされた顔を拭う。焚き染めてあるのか、花のような香りが微かにした。 「ありがとう」 あらかたの水分を拭き取って、早々に返す。汗も一緒に拭えてすっきりしたが、嗅ぎ慣れない香はむず痒さをタケミカヅチの心に起こし、言葉にならない居心地の悪さを感じさせた。 「少しは落ち着きましたか?」 「え?」 どうしたものかと惑っているところに、アマテラスが微笑みかける。柔らかで慈愛に満ちた笑みだ。だが発した言葉の意味するところを図りかね、さらに戸惑いが胸に生じる。一体何を気遣われているのか。思い至れずにいると、ツクヨミが割り込んできた。 「タケちゃんの探してる人なら、花廊の藤の花の下にいるわよ」 「えっ!?」 思うよりも早く身体が反応して、花廊の方向を向く。今いる場所からは見えるはずもないのに、咄嗟にその姿を探した。 そんな滑稽さに、姉妹が揃って小さく笑う。二種類の鈴のような笑い声に、タケミカヅチは自分の必死さに恥じ入った。何も格好つけたいわけではないが、女性の前であまりにも不格好だったか。 「大丈夫ですよ。すぐにいなくなったりしませんから、落ち着いてください」 「……何故、君たちはそれを……」 「女の勘を舐めないでよね。それでなくてもタケちゃんは分かりやすいんだから」 自信に満ち満ちて言うツクヨミに、アマテラスが苦笑している。自分ではそこまで顔に出していたつもりはないが、彼女たちから見たら明らかだったのだろう。今し方の自分の行動を振り返れば、反論の余地もない。いっそどうかしているとさえ言える。 だがそれだけ愛しい存在になっていたのだ。全てを差し置いて彼だけがほしいと希う心を止められない。藤の花の下に佇む姿を懸想しただけでも、会いたさに目が眩む。気もそぞろになる。 「さあ、行ってください」 緩やかな力で、身を反転させられる。 「ちゃんとやんなさいよ」 ぽん、と背中を押される。 なんて情けないのだろう。女性たちに背中を押されてようやくだなどと。礼も言えぬまま走り出し、恋情だけを胸に向かうなどと。告げる言葉も何ひとつとして考えていないのに。 七、 悪酔いしそうなほど酒を飲むスサノヲの暴挙を止めるため、アマテラスは弟の手から酒瓶を奪おうとした。いい加減にしなさい、と言い放った自分の声が静かになり始めた室内に広がったが、気にする者など誰一人としていなかった。 無事、酒瓶を奪い取り、自席に座り直す。一段落したところで、何気なくタケミカヅチの声を拾った。彼も今夜はやけに酒を呷っていたが、大丈夫だろうか。心配もあり、その声を追った。 ――酒の席での軽微な事故など、もはや予想できて然るべきだろう。酩酊した頭でまともなことを考えられるはずもなく、タガの外れた者たちは幼子よりも始末にならない暴徒と化す。 アマテラスすら酔っていた。平生よりも言動が緩んでいた自覚がある。だがそんなほどよい酔いも一気に醒めるような出来事が視界の内に繰り広げられ、思わず酒瓶を抱き締めた。 「その眼に映るのは俺だけでいい」 酷く酔っていてあまり呂律も回っていないタケミカヅチの口調。それでも強く恋い焦がれる声で、吐き出された彼らしくない言葉。 「どおしたぁ、アネキぃ」 それ以上に酔って呂律の回らない弟が、固まったアマテラスの目線を追った。 剣を握る誠実で武骨な手が選んだのは、オモイカネの唇。知恵ばかりを吐く幼気なその唇を奪い、倒れ込む。どこか生々しい、その鈍い音。何故か胸が小さく鋭く痛んだ。 「た、タケミカヅチ、落ち着け。ここは自室ではないよ」 タケミカヅチの隣にいたフツヌシが、慌てて止めに入った。タケミカヅチは何やらぐずっているが、お構いなしにフツヌシが連れ出していく。気付けば室内は静かで、事の次第を見守る目線に溢れていた。 やがて机の下からゆっくりと身を起すオモイカネ。顔色など今までに変えたことがあるのかと思うほどに冷静沈着である彼が、動揺も露わに頬を染め上げている。突然のことに呆然としているようにも見える彼は、おそらく無意識であろうその指先で、奪われた唇を探した。 その得も言われぬ恋の色には、羨望すら覚えた。あのタケミカヅチからの寵愛を受ける資格が、彼にはあるのだ。アマテラスは決してそれがほしかったわけではない。だが誠実な男から誠実な愛を注がれる喜びとは、多くの女性が羨むことではないだろうか。 「――……それにしても、タケちゃんって意外と面食いなのね」 ツクヨミの呟きに、アマテラスは同意しかけた。オモイカネの容姿が優れていることは周知の事実である。だがタケミカヅチは果たしてその見目に惹かれただけだろうか。 「うーん、どうかなぁ……」 「オネエサマだって顔なら負けてないと思うんだけど」 「えっ、何で私!?」 突然、自分を引き合いに出され、アマテラスは弾かれるようにツクヨミを見た。ツクヨミはいやらしげに笑んでいる。まるで訳知り顔だ。 「別に? ワタシはただそう思っただけよ」 「な、何よ! もう、からかわないで!」 キャハハと笑いながらツクヨミは去っていく。妹の足取りはゆっくりだが、アマテラスは追えずにいた。顔が、嫌気が差すほどに熱い。妹は本人が言うように大したことなど言っていないのに、過剰な反応をしてしまった自分がただ憎い。 いつか与えられた優しさに夢を見かけたこともあった。だがそれはあくまでも夢だ。タケミカヅチは小さな恋を芽生えさせるに足る誠実さであったが、誠実すぎたが故に打ち砕いてくるのも早かった。もはや今更、彼に対して信頼の置ける仲間以上の感情はない。ないはずだ。 胸の小さな痛みに、意味などない。これから労せずとも実る恋に嫉妬しているだけだ。 |