一、 オモイカネとともに戦場を先陣切って戦うようになってから、しばらく経つ。戦闘において矢面に立つ立場上、彼と霊廟にて枕をともにすることは数多く、床に就くまでの手順も、起きてからの挙動も、お互いに覚えてしまった。隣に彼がいるという空気感は、タケミカヅチにはもはや当然のことのように思えてきている。 今日もまた例に漏れず、戦闘によって削れてしまった魂魄を回復するために、オモイカネとともに霊廟に入った。どちらからともなく寝る前の挨拶を交わし、眠りに就く。疲労していた身体はあっという間に意識を飛ばし、夢も見ない深い眠りに入った。 ふと目を覚ませば、視界に光るものがあることに気が行った。注視すれば何てことはない、オモイカネの金の髪が光を受けて微かに輝いていただけのこと。淡い金色は、障子に遮られてなお差し込む僅かな光を反射していた。 ――そろそろ起きる時刻だろうか。タケミカヅチは身を起した。持ち上げた身体は軽く、すぐにでも次の戦場へ向かえそうだ。伸びをして、脱力。寝乱れた浴衣を意味もなく整えてみたりしては、着替えの算段を考えた。 何気なしに隣を見遣れば、オモイカネはまだ起きそうにない。寝息は静かで、上下する胸元の動きで呼吸をしているのが確認できるだけ。いつもならそれだけのことで終わるのだが、今は何となく寝顔を見てもいいだろうかという気持ちになった。 (少しだけならば……) 誰に言うわけでもなく、許しを請うように心中で呟いた。そうして甘い蜜色の髪に誘われるように、そっと近付く。人の寝顔を見るというそこはかとない背徳感を抱きつつ、顔だけを彼の上へとやった。思えば彼を見下ろすなんてことは、長らく一緒にいるがこれが初めてだった。 全てを見通さんとする鋭い眼差しが閉じられている。それだけで幼い印象を滲ませる相貌は、それでも溜め息が出そうになるほど美しかった。以前から美しい神だとは思っていたが、凝視すればするほどその美貌に当てられてしまいそうな錯覚に陥る。高い鼻梁も、形のいい唇も、桜よりも淡い色の頬も、何もかもが麗しい。 その美を意識してからは、ほんの少しだった背徳感が異常に膨れ上がった。こんなにも美しい神が、すぐ傍で無防備に寝ているという状況が許されていいのか。そう思っている側で、背徳感が何故か背中を押してくる。柔らかそうな髪に触れてみないかと囁いてくる。 どうしてこうも甘美な誘惑を囁きかけてくるのだろうか。自分で自分に問うても答えなどはない。ましてや勝てずに手を伸ばす自分を鑑みては、ただの願望でしかなくなる。何て愚かしいことだろう。止められずに触れた前髪の柔らかさに、タケミカヅチはただ震えた。 (ああ、何てことだ……) 接触というものは、戦場だけに留まらず寝食をもともにしているのだから、全くないなんてことは有り得ない。彼の髪にだって触れたことは何度かある。なのに何故、今この瞬間だけは、とてつもないものに触れているように感じるのだろうか。速まる鼓動がやたらと焦燥を煽る。緊張に指先が震えそうになる。 そんな手の下で、オモイカネの閉じられている瞼が震えた。はっとして手を離す。ややもしてゆっくりとその眼が露わになるのを、タケミカヅチは固唾を飲んで見つめた。 「……おはようございます」 寝起きの蕩けた目が、どこか不思議そうに見つめてきた。だが薄らと開かれた唇からは目覚めの挨拶だけを零して、タケミカヅチは少々面食らってしまう。何事かと問われるかと思っていたのだが、肩透かしを食らった気分になった。 「おはよう。よく寝ていたな」 何気ない風を装って、挨拶を返す。彼は何度か瞬きを繰り返しながら頷いた。 「ええ。先の戦闘でだいぶ魂が削れてしまっていたので」 彼もまた、身を起すとその背を伸ばした。その行為一つで、寝ぼけ気味だった眼がいつもの鋭さを取り戻す。平生の彼がそこにいて、タケミカヅチはそれまで詰めていた息をこっそりと吐いた。 だがそれも束の間、着替えようと布団の抜け出したオモイカネの、乱れた浴衣姿にぎくりとした。やましいことなど何もないのに、焦燥感、背徳感が再び頭をもたげる。着替えのために躊躇いもなく晒される白い背には、いっそ眩暈がしそうだった。 慌てて目を逸らし、己の着替えに没頭しようとする。だが彼の起こす布擦れの音にひどく集中を削がれて、上手く服が着られそうにない。どくどくと脈打つ心臓の理由も分からず、釦を留めようとする指が震えを思い出していた。 二、 数多の悪霊との戦闘の繰り返しで肉体は疲弊していたが、だからとて膝をつくわけにはいかない。崩れそうになる己の足を叱咤して、剣を振るい続けた。 結ぶ剣戟は時間が経つごとに重くなっていく。もはや気力だけで戦っている状態だ。他の仲間を気にする余裕もない。少しでも気を他に向ければ、敵からの一撃に吹き飛ばされてしまいそうだった。 悪霊の面妖な武器が降り下ろされるのを、紙一重で躱す。その隙に剣を横に薙いでは態勢を崩し、畳み込むように兜を割る。固い感触。だが痺れを感じることもない。すでに手の感覚などなかった。敵に一撃を与えられているのが、本当は不思議なくらいだ。 倒れる悪霊の姿の奥に、オモイカネの姿が見えた。戦闘はあまり得意ではないというものの、己の策への自信からか恐れず敵へと向かって行く。何て強い人なのだろう。疲れていないはずがないのに疲れを見せない気丈さに、タケミカヅチは勇気付けられる思いで剣を握り直した。 感覚はそんなもので簡単に戻ってきたりはしない。だが戦うことはできる。テッソから放たれる雷に得物を手放した愚かな悪霊に向かって、渾身の一撃を振り下ろした。 「――大丈夫か?」 堪らず剣を地面に突き刺したタケミカヅチに、クウヤが気遣わしく声をかけてきた。弓の弦を弾き祝詞を癒しの光に変えることで、傷を治してくれる。疲労までは癒せないが、タケミカヅチはようやく心の余裕を取り戻して答えた。 「ああ、ありがとう。もう少し多く悪霊がいたら危なかったかもしれないが」 「激戦だったな。だがこれでこの辺りも落ち着くだろう」 「そうだな。そうなることを祈ろう」 タケミカヅチは静寂を取り戻した周囲をぐるりと見渡した。他に敵が隠れていないかを確認するのと、何となくオモイカネの姿を探したが、先に見つけたのはテッソの姿。彼女も疲弊しきった様子で地面に座り込んでいた。 その近くにオモイカネもいた。やはり悪霊の残党がいないかどうかを確認しているのか、辺りを見回している。タケミカヅチは二人に声をかけようと思い、突き刺していた剣を抜いた。その時だ。 「――テッソさん、危ない!」 オモイカネの鋭い声にはっとした。座り込んだままのテッソの後ろで、悪霊が武器を振り上げている。庇わなくてはと思ったが、今いる場所からは全速力で走っても間に合いそうにない。最悪の状況に血の気が引いた。 響くテッソの絹を裂くような叫び。だが絶体絶命の瞬間を割って入ったオモイカネが、悪霊の一撃を間一髪で受け止めた。 競り合う両者の後ろで、辛うじて危機を逃れたテッソが動けないでいる。だが逃げろと叱咤するオモイカネの声に、テッソは弾かれたように走り出した。足をもつれさせながらも走ってくる彼女に、タケミカヅチはこちらに来るようにと手を伸ばす。 「大丈夫か!」 タケミカヅチの手を取ったテッソに問いかける。彼女は青褪めた顔で頷いた。 「わたしは大丈夫ですが……」 テッソの言葉にはっとしてオモイカネを探す。そうして彼の姿を捉えたと同時に、クウヤとテッソが叫んだ。悪霊の巨大な武器がオモイカネを吹き飛ばす。近くの木に激しく叩きつけられた彼は、そのまま地面に崩れ落ちた。 ――瞬間、どす黒く燃え上がる感情が全身を焼いた。オモイカネに狙いを定めた悪霊の丸まった背に向かい、一刀両断に割く。手の感覚はない。疲労すらもない。憎悪を孕んだ怒りしかない。 骸と化した悪霊が塵に還る。それを見届けることもせず、オモイカネの元に向かった。倒れている彼を前に剣を捨て、その身を抱き起こす。意識を失っている彼はぐったりとして反応はなく、ただ温かな体温だけが死んではいないことを伝えた。そのことに微かな安堵を思えたが、不安は拭い去れない。 「オモイカネ殿……!」 呼び掛けながら、頬を軽く叩いた。それでも反応はなく、彼はタケミカヅチの腕の中で沈黙している。閉じられたままの瞳。やや青褪めた頬。服越しに伝わってくる確かな温もりが返って物悲しい。声が聞きたい。その眼が見たい。大丈夫だと微笑んでほしい。どうすれば目を覚ましてくれるのだろうか。 ひたすら祈るようにして強く抱き締める。すると不意に吐息の変化を感じて、弾かれるように顔を見た。俄かに苦悶の表情を浮かべたオモイカネが、ようやく開いた眼でタケミカヅチを見つける。 「タケミカヅチさん……」 「オモイカネ殿、大丈夫か!?」 「ああ……、私は気を失って……」 オモイカネは体を起こそうとしたが、痛みが走ったのか顔をしかめてタケミカヅチの腕に体重を任せた。 「無理はしなくていい。もう悪霊もいない」 「済みません……、私が、戦闘が不慣れなばかりに……」 「いいんだ。よかった。目を覚ましてくれてよかった……」 いまだ青いその頬を、手のひらで包み込んだ。温もりと眼差しが、彼が今ここにしっかりと生きていることを教えてくれる。実感できる。彼を失ってしまうかもしれないという不安から解放され、安堵に視界が潤んでしまいそうだった。 掠れそうなほど微かな声で、呼ぶでもなく名を紡がれる。不思議そうに見上げてくる若葉色の瞳。だが何も問わず、ただじっと見つめてくる。その揺らめきが、いつまでもこの腕の中にあればいいのに。 三、 広い花廊の中心には四阿が置かれており、時に行き場を失った英傑たちの溜まり場になっている。とはいえ彼らはそれぞれ思う場所を持っており、――オモイカネにとってはそれが書物の集められた戦術所の一室であったりする――、四阿は賑わっている場所とは言えなかった。 オモイカネは戦術所から書物をひとつ持ち出しては、誰もいない四阿を訪れた。簡易に作られた椅子に腰かけ、申し訳程度に張られた風除けの木製の壁にもたれながら花廊を眺める。療養せよと見回りを免除され、常の仕事であったお伽番も一時罷免され、突然の余暇をこれでもかと持て余していた。 全ての仕事を奪われてしまった理由は分かっている。昨日の戦闘での失態だ。仲間を庇って悪霊の攻撃を受けたものの、捌ききれず吹き飛ばされてしまい、木に打ち付けられた衝撃で気を失ってしまった。仲間たちは誰一人としてそのことについて責めたりするようなことはしなかったが、責めに帰すべき事由は十分にあったように思う。 碌な戦闘経験もないのに、仲間を助けるためとはいえ大型の悪霊との間に割って入るなど、やはり軽率だっただろう。策だ知略だなどと申せど、経験の培われていないそれらは机上の空論でしかないということだ。戦闘に関して己はいまだ浅学にして浅慮だ。 (これでは話にならない) 思わず溜め息が出た。足手まといにはなるまいと思っていたが、これではしっかりと足手まといだ。もはや自分にできることはお伽番をはじめとした社内の仕事しかないのではないだろうか。それでも独神のためにできることがあるのは幸運か。 今は考えても栓ないことだと思い直し、持ち出してきた書物を広げた。知識に触れている間は何も考えなくて済む。ただそれに溺れていればいいのだ。これ以上にこの心を奪うものなどない。 「――珍しいな、こんなところで読書なんて」 突然の声に顔を上げれば、そこにはタケミカヅチの姿があった。そういえば今朝方、自分の免職と同時に、彼が花廊の仕事を宛がわれていたことを思い出す。 「ええ。今日は完全に非番になってしまいましたので」 「そうだな。君は少し働き過ぎているから、こういうときぐらいゆっくり休むといい」 「働き過ぎなのは貴方もでしょう? それに私は自分のできることをしているだけです。戦闘においては貴方に頼りっきりですし、せめてお伽番くらいはしっかりこなしたい」 「それを言うなら、俺だって戦闘ぐらいしかできることがない。だが君はお伽番をしっかりこなしている上に戦闘にも参加している。やはり君のほうが働き過ぎだ」 「ですが、私は――」 「――とにかく」 言い募ろうとしたオモイカネの言葉に被せるようにして、タケミカヅチがやや語気を強めて遮った。 「昨日の今日だ。ゆっくり休んでくれ。明日からまた主君からお伽番を頼まれるはずだ。お伽番に関しては君に一番信頼を置いているようだからな」 優しくそれだけを言い残して、タケミカヅチは花廊の仕事に取り掛かって行った。昨日の戦闘では彼が一番、疲弊していたはずなのに、見回りからは外されたとはいえ精力的だ。真に戦う者は身体の基礎が違うのだろう。自分とて働けないことはないのだが。 吹き込んでくる暖かい風が髪を揺らす。差し込む陽光が足元を照らして温めた。瞼が重くなり、書物を持つ手から力が抜けるのを実感する。 (眠い……) 誘惑に勝てず目を閉じると、意識はすぐさま沈んだ。 ふと意識が浮上したが、瞼はいまだ重く開けられそうにない。もう少し寝てしまおう。そう思って微睡みの波に再び身を委ねようとした。 そこへ誰かの指が髪に触れた。恐る恐ると言った指先が、髪から額、頬へと優しく流れていく。今までに感じたことのない優しさでもって、温かな掌で頬を包み込んでくる。思考を溶かすような甘やかさだ。 一体誰なのか。確認したくても目を開けられない。瞼も思考も重くて仕方がない。もう誰でもいい。どうせ英傑たち以外に来る者などいないのだから、あとでどう言われても構いはしないし、それはそれで相手が分かること。もうそれでいい。 ――そう思ったのが今し方のことのように、オモイカネは目を覚ました。眠ってしまう前より幾分、日が傾いてしまっているか。タケミカヅチと働き過ぎる過ぎないの軽い押し問答があったが、結局はこの様か。蓄積された疲労を見抜かれていたのならば、恥ずかしいことこの上ない。 己の不甲斐なさに溜め息すらも出ないまま壁から身を起すと、何かが膝に落ちてきた。どうやら寝ている内に上着をかけられていたらしく、見覚えのある黒い上着が膝にあった。これはタケミカヅチのものだろう。 (そういえば……) 夢現の中で、何者かに触れられたような気がしたのを思い出した。ひどく優しい触れ方だったが、もしかしてタケミカヅチだったのだろうか。だが彼の指はあんなに優しいものだろうか。武人らしく無骨な手指をしていることは思い出せるが、果たして。 (そんなことより、上着を返さないと) 上着を抱えて四阿を出た。花廊を見渡してみるが、植えられた草花が広がるばかりでタケミカヅチの姿は見当たらず。もう仕事を終えてしまったのだろうか。 もし汗を流す段階であるならば、井戸にいるはずだ。井戸は宴にも使われる社殿の裏手のほうにある。花廊の向こう側だ。 そこを目指して、咲き乱れる花々の間を急くように突っ切る。背の高い花の生垣で、枝に少し髪の毛を引っかけてしまった気がしたが、構っていられない。妙に逸る心に背を押され、どういうわけか早くその姿を確認したかった。 そうして井戸へと至れば、案の定、タケミカヅチは井戸の前で手拭いを絞っていた。その身にいつもの黒い上着はなく、やはりかけられていた上着は彼のものだったかと確信する。ここにきて書物を四阿に置いてきてしまったことに気が付いたが、すぐにどうでもよくなった。 「タケミカヅチさん」 呼びかけると、彼は振り向く。合点がいったように微笑むその顔に、何故か安堵を覚えた。 「これ、貴方のですね?」 「ああ。返しに来てくれたのか」 「ええ。……どうやら、恥ずかしいところを見られたみたいで」 「はは、気にすることはないさ。気持ちよさそうに眠っていたから、起こすのも気が引けてな。かといってそのままにしておくのも、風邪を引かせてしまいそうだったし」 「済みません、ありがとうございました」 差し出すと彼は受け取り、袖に腕を通す。着心地を確かめるように軽く腕を動かして、それからこちらを見た。 「少し顔色が良くなったんじゃないか? やはり疲れてたんだろう」 言われて、やはり勘付かれていたかと羞恥の念が湧いた。 「ああ、やはり……。そんなつもりはなかったのですが……」 「だから働き過ぎなんだ、君は。でも、これで大丈夫だな」 彼は柔らかく微笑み、手を伸ばしてきた。その手は髪に触れ、何かを取っていく。その指には淡い色の花弁。花廊のどこかで引っかけてしまったようだ。いつの間にそんなことをしてしまったのか、とんと記憶にない。 (私は何をそんなに急いていたのだろうか……) どこで引っかけてきたんだ? と笑うタケミカヅチのからっとした笑みに、息苦しさを覚えながら考える。あの時この身を突き動かした衝動を、いくら思い出しても言葉にならない。ただ胸が苦しいばかりだ。 独神に報告するからと去っていく背を見送り、ふと昨日の戦闘でのことを思い出す。気を失って目覚めたとき、自分はタケミカヅチの腕の中にいた。今にも泣きだしそうな眼で、安堵の言葉を漏らした彼。頬に触れてくる手は、まるで壊れ物を扱うかのような繊細さ感じさせた。 その指は優しかったのだ。先の夢現に感じたあの掌と似た優しさだった。骨張って硬い皮膚から、染みるまでの温かい優しさが滲んでいた。もっと触れてほしい、そのまま温めていてほしい、そう願ってしまうくらいに。 これが同一人物ではないというならば、一体誰だというのか。はっきりと教えてほしい。彼の手であってほしいと希う、この期待を裏切ってほしい。 仕事の休憩をしようと四阿を訪れると、先客であったオモイカネが眠ってしまっていた。何だかんだ言っても、やはり疲れていたのだろう。自分とて幾分かは疲れが残っている。だが身体を動かさないでいるのは性に合わず、どうせ鍛錬を始めてしまう。見越した独神に花廊の仕事を宛がわれたのは有り難かった。 眠り続けるオモイカネに近付いてみるが、彼は身動き一つしない。よほど疲れが溜まっていたのか、無防備な寝顔を晒している。開くことすらされていない書物が、その手から落ちそうになっていた。 落ちる前にと書物を取るが、それでも起きない。風に髪を弄ばれても、その髪を今度は自分が軽く掻き分けてみても、なお。愛らしい形の唇からは穏やかな寝息ばかりが零れ、花の香に包まれて深い眠りに落ちていた。 (起きない、な……) 睫毛が目尻にうっすらと影を落としている。その下の頬は桜よりも淡い色。触れたくなって、手のひらで包み込んでもなお起きない。ならば口付けてしまっても起きないだろうか。唇を吸って、寝息を飲んでしまってもいいだろうか。 そっと唇を寄せる。いつかも見た美しい寝顔が間近になる。何も知らない吐息が口元にかかり、ぞくぞくとした興奮が背を走った。緊張に心臓が早鐘を打ち、その音で彼を起してしまいそうだ。 (――何を馬鹿なことを) さっと身を離して、タケミカヅチは足早にその場を後にした。顔に熱が集中して、嫌な汗をかく。不意の欲求には動揺しかなく、訳の分からない心持に困惑を禁じ得ない。人の寝込みを襲うような真似をして、一体何がしたいのか。彼に触れてどうしたいのか。 タケミカヅチは口を引き結んだ。何にも触れることのなかった唇が、いまだに期待して止まない。あの唇の柔らかさを知りたがって、ほしがって、仕方がない。 |