どうしてこんなにも弱いものか。オモイカネは己の拳を握りしめた。
 事の発端は酒の席での酔っ払いの発言。負けた者は女装だ、などと訳の分からない条件を提示してくる思考は理解に苦しむ。酔った者に理性と理論を求めても無駄だということは分かっているが。
 果たしてオモイカネはじゃんけん大会に巻き込まれ、見事に連敗を喫した。相手の思考や癖を理解していれば勝てないことはあっても負け続けることはないというのに、今回ばかりはいっそ面白いほどに負け続けた。酔った相手には何も効かないということなのだろうか。酔いとは時に最強である。今は知りたくなかった。
 無論、抵抗はした。この身の丈に合う女物の着物などあるはずがない。そう言い逃れしようとしたものの、それはアマテラスの明るい声によって阻まれる。任せて、と意気揚々と部屋を飛び出した後姿に、黄色い声を上げたのはツクヨミ。ややもして持ち出された大振りの着物に、オモイカネはさすがに顔を覆うしかなかった。
 酒で興奮した輩に囲まれ、逃げ場はないと悟った。受け取った豪奢な柄の綴織り。大胆にして繊細な織り目としっかりとした作りは、一目でも相当な職人技が窺える。こんな時でなければその技を余すことなく眺めて堪能するのに。生地がずっしりと重いのは、何も着物の作りのせいだけではあるまい。
 姿見の前で、百花の王を足元に咲かせる。知識を頼りに帯を締めれば、心がさらに重みを増した気がした。慣れないながらにしっかりと着付けられたことを自画自賛する余裕もない。溜め息が自然と零れる。もう何度目だろうか。
「――おい、遅いぞ。まさか着付けが分からないのか?」
 突然の声に、はっとして下げていた顔を上げた。鏡越しに背後の襖が断りもなしに開けられたのを見る。ヤマトタケルだ。
「あ、開けるなら開けると言ってください」
 振り返りながら非難をすれば、彼はあっけらかんとして言い放つ。
「女じゃあるまいし、細かいことは気にするなよ」
「そういうことでは」
「わかったわかった」
 遠慮も会釈もない物言いだ。言葉通り相手が女性でないからこその行動であったにしても、親しき仲にも礼儀ありという言葉がある。褒められたことではない。だが言い募ったところで聞く耳を持たないのだろう。こうして躱されるだけだ。
 閉口したオモイカネを、ヤマトタケルはまるで品定めでもするかのように上から下へと目線で舐めた。今の自分はまさに『見せ物』であると理解しているが、それにしてもと思わせる視線のやり方だ。そんなに見つめるほどのものだろうか。やはり酔った者のやることは理解に苦しむ。
「悪くないな」
 にやりと満足げに笑う顔は皮肉めいて見えた。例え心からの称賛であろうと、素直に喜べるものではないとは、現状をいまだに認めたくない自分が訴えていた。
「そうですか」
 おざなりに返事をした。だが気にした風もなくヤマトタケルは辺りをきょろきょろと見回す。何かを探しているようだ。
「あとは化粧だな」
「は?」
 ヤマトタケルの行動を理解するよりも速く、思わず声が出た。目が合う。目を眇められて、その剣呑さに心中で嘆息した。
「……化粧もせずに女装だと? 舐めてるのか?」
 何をどうすればそうなるのか。誰かに懇切丁寧に説明してもらいたい。だが二人きりのこの部屋でそれが叶うわけもなく、人がいたとしても不可能だろう。絶望感にも似た気持ちが胸を去来する。
「できないのなら俺が施してやる。そこに座れ」
 鏡台を指差す彼の声がどこか刺々しい。基本的には何事に対してもあまりやる気を出す質ではない男なのだが、遊びのこととなると妙な本気を出すところもまた有り。例に漏れず本気で遊ぼうとしているのだろう。ましてや女装は彼の得意分野とも言える。
 逃げる気は疾うに失せた。今更、化粧を逃れたところで大して変わらない。ならばおとなしく言うことを聞いて、彼の心証を良くしたほうがマシというものだろう。乗り掛かった舟、毒を食らわば皿まで。オモイカネは観念して鏡台の前に座る。
 ヤマトタケルの持ち出した化粧箱は、まるでその道の商売道具かのように大きなものだった。芸者か何かか、という言葉が喉まで出かかって飲み込む。趣味の範疇を超えた大きさだが、まさか彼の私物なのだろうか。いやまさか。
「ほら、こっちを向け」
 問う間も与えず施そうとする手に、オモイカネは口を閉ざしたまま従った。
 前髪を掻き上げられ頭部で押さえられると、いつの間にか手に取っていた白粉を塗りたくられる。生え際から首のほうまで、玄人のような念の入れようだ。瞼の上も塗るだろうと目を閉じれば、案の定、瞼の上に指が乗せられる。それは予想していたよりも優しい手つきではあった。
 やがて離れた手は、筆と取って代わって瞼の際をなぞった。目尻紅か。涙の零れ落ちる瞬間にも似た感触に、そこまでするかと思った。だが全てが今に始まったことではない。きっととことんまでやるだろう。もはや自分は身を任せるだけだ。
「お前は素材がいいから化粧も映えるな。やり甲斐がある」
 どこか恍惚とした口振りで呟かれる。どの顔が言う台詞か。目を開けた先に見えた、女を、男をも魅了する美貌を見て思う。こんなにも近くで見たのは初めてだが、見惚れてしまいそうになる美しさだ。
 やがて彼の手は次に移行した。陶器製の小さな器からその薬指が取ったのは、見るも真っ赤な紅。顎を取られて固定されると、まずは下唇に薬指が乗せられた。口角のほうから中心へと、丁寧に口紅を塗られる。
 塗り重ね馴染ませるために何度も唇をなぞられ、その感覚にどういうわけか背筋に震えが走った。注視してくる目線も相まって、堪らず再び目を閉じる。咄嗟に息の仕方を忘れてしまい、彼の指先に吐息を吹きかけてしまう。その熱さは、あまりの恥ずかしさに嫌気が差すほどだった。
 だが視覚を閉ざせば他の感覚が鋭利になる。紅を塗る指先の艶めかしさをより強く感じて、息すらも震えそうになった。暗闇の中で射貫くような目線さえ感じる。どうしてと己に問うても、答えられるものはなし。耐え忍ぶために握りこんだ拳がただ痛い。
 気を紛らわしたくて、もう一度目を開けた。相手を見ずに逸らした目線の先に、化粧箱。よく見れば紅筆らしきものがある。これだけ大きな箱なのだからないはずはないだろうが、あるならあるで何故彼はそれを使わないのか。
「……紅筆が、あるみたいですが」
 指が離れた一瞬の隙に訊ねてみると、彼もそれを一瞥してああと答えた。
「別にいいだろ。それとも指は嫌か」
「いえ、そういうわけでは……」
 ここまで来て嫌も何もない。筆であれば身体を這うような痺れにも似た感覚を覚えずに済んだのだろうが、後の祭りである。ここで深く追求しても栓ないこと。オモイカネは口を閉じた。
「完璧だな」
 得心の言ったような呟きとともに、ようやく解放される。長く感じられた時間の終わりに、安堵の息が漏れた。
 そうして鏡を見る。そこに映るのは自分であって自分ではないような、女の顔。男の気を引くための真っ白い肌と真っ赤な唇は、一夜の慰みを売る徒花のようだ。ただ表情は今の自分の心境を如実に表すかの如く、憂いのそれだった。
「――不満げだな」
 ヤマトタケルが言う。オモイカネはそれに肯定する以外の言葉を見つけることができなかった。
「当たり前でしょう。私は男ですよ。それなのに、こんな……」
 無意識に、唇に触れた。あの蹂躙するかのような感触がまだ残っている。いくら引き結んだとて、拭いきれない。
「単なる遊びだ。開き直れよ」
「そう簡単に言いますけどね」
 言いきらない内に、肩を抱かれて引き寄せられた。咄嗟のことにヤマトタケルの胸に手をつき、しな垂れかかるような形になる。何事かと離れようとしたが、どういうわけか肩の手がそれを許さなかった。すぐ傍の彼の顔を見上げると、不敵な笑み。
「こうやって凭れ掛かって笑んでみろ。これだけの器量に微笑まれたら、男なんて簡単に下僕に成り下がるぞ。人を手玉に取るのは好きだろ?」
 楽しめよ、と言外に笑う唇は妖艶そのもので、思わず喉を鳴らした。なるほど、その笑みを間近に見せられては、その辺の男など文字通り下僕に成り下がるだろう。正体を分かっている自分ですら、その気配に反論の言葉を忘れたくらいだ。
「……遊びなのですから、それこそそこまでしなくてもいいのではないですか」
 逃れたい一心で顔を背けながら言うと、殊の外あっさりと手は離れていく。肩透かしを食らうかのような引きの良さだった。
「まぁ、それもそうだな」
 どこまでが本気で、どこまでが冗談なのか。もしかしたらどこまでも本気であり、またどこまでも冗談なのかもしれない。掴み所のなさに翻弄されて、オモイカネはもはや溜め息も出ない。
 行くぞ、と差し伸べられた手。またあの酔っ払いの詰め込まれた坩堝に戻るのかと思うと、心底げんなりした。だが逃げられないのは分かっている。決心して、その手を取った。
 強い力で引き寄せられて、その勢いで立ち上がる。ひどく楽しげだ。悪戯で、どこか無邪気さもある笑み。オモイカネは釣られて苦笑した。この人には敵いそうにない。






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