都は相変わらず人々の喧噪に溢れていた。活気に満ちた市場は、いつ来ても心が躍る。立ち並ぶ店につい目移りがして、時間を忘れてしまいそうになる。だが今回はそうもしていられない。 アメノワカヒコは斜め前を歩くオモイカネを見る。彼は用のない物には目もくれず、目的の場所へと向かう。あちこち様子など伺わなくても、店までの道など頭に入っているのだろう。頭の良い彼らしい、合理的な行動だ。 アメノワカヒコとしては多少よそ見をしてもいいのではと思うのだが、お伽番として忙しなく働く彼には言えそうになく。おとなしくついていくしかない。今回は彼の手伝いとして訪れたのだから、他に目を奪われている場合ではないのだ。 凛とした背を追う。歩みに合わせて揺れる後ろ髪。可愛いなどと思ってしまうのは失礼だろうか。そうでなくても彼は時々、思いも寄らない可愛さを見せるときがある。そのほろりと零される愛らしさを拾う度に、喉元まで衝動が競り上がってくる。 「――着きました」 声にはっとして視線をさ迷わせた。市場からはやや外れた場所にある、こじんまりとしたその店。初めて来る場所に、アメノワカヒコはついその外観を探るように見詰めてしまった。 「ここにはなかなか良質なものが揃っているんですよ」 そう言って、オモイカネはするすると奥へ入っていく。アメノワカヒコは慌ててその後を追った。 中は所狭しと棚が並べられており、また窮屈そうに商品が陳列されていた。取り扱っている商品の種類は多そうだが、それぞれの数は少なそうだ。これで店としてやって行けるのかと他人事ながら少し心配になる。 オモイカネは気にする素振りを見せず、棚に目線を走らせる。周囲のことなど忘れてしまったかのように、目的のものを探し当てるのに集中している。 「――おや、また来たのかい」 「ひっ!?」 不意に奥から声がして、アメノワカヒコは驚きに情けない声を上げてしまった。見れば店主らしき老人が手を腰に立っている。少し怪しげに見えた。 「お邪魔してます」 オモイカネはすでに老人とは懇意のようで、慣れたように挨拶をした。老人の先の言葉からも察するに、常連となっているらしい。 「アメノワカヒコさん、この方はこの店の店主さんです」 「は、はじめまして」 紹介されて、自分の挨拶がまだだったことに気付いた。急いでお辞儀をすれば、品定めをするかのような視線。不安が頭をもたげた。 「お前さんが連れを連れてくるとは珍しいね」 「ええ。今日は色々と買い込みたいので」 「ちゃんと買ってくれるんなら文句はないさ」 「もちろんですよ」 店主は言うだけ言うと、さっさと奥に引っ込んでしまった。 「お、オモイカネ殿……」 「ああ、大丈夫ですよ。あの方はいつもあんな感じです。私も最初は戸惑いました」 苦笑気味に微笑むオモイカネに、アメノワカヒコは安堵の息を吐いた。無愛想な物言いに機嫌を損ねさせてしまったかと思ったが、そうではないらしい。しかしながら誤解を生みやすい御仁ではなかろうか。 「さて、まずはこれですね」 いつの間にか早くも物の目星をつけていたらしいオモイカネが、早速棚に手を伸ばした。それを皮切りに、次から次へと商品を手に取っていく。持ちきれない分をこちらに渡すなどして、普段では考えられない速さで買い込んでいった。 「大丈夫なのか? いつもならもっとちゃんと選別するのに」 どうせ買うならより良いものを。口癖のように呟いては一つ一つをじっくり吟味して購入を決める彼が、まるで衝動買いでもするかのように買い物をする姿は異様に見えた。いつもならば考えられないことだ。 「この店の商品については信頼していますので。いくつもの店を見て回りましたが、ここほど厳選しているものはありませんよ」 「褒めても何も出んぞ」 奥の暗がりからの声に、アメノワカヒコは再び驚かされた。今度は声を出さなかったことを自分でも褒めたい。それほど老人の存在は神出鬼没だった。 「私は事実を言ったまでですよ。ーーおや?」 ずっと棚に目を走らせていたオモイカネが、ふと何かに興味を引かれたらしく目を留めた。興味深げに見入る様は、面白いものを見つけた子供のようにも見える。そんな目線の先には、アメノワカヒコには何が面白いのか分からない代物しかないが。 集中する彼の頭の中では今、何が繰り広げられているのだろうか。彼は無意識に顎に手をやり、じっと考え込んでいる。その流れで指を唇へと持って行きながら、何やら難しげな顔をした。 アメノワカヒコは彼の意味もなく自身の唇を触る仕草に思わず見入った。唇の柔らかそうな感触が見て取れる。綺麗な指が、あの形の良い唇をなぶるかのように触る様。その指が自分のものだったら。 一瞬の妄想に息を飲んだ。指先に走った緊張。汗がにわかに滲んで、暑くもないのに熱を感じる。鼓動が早鐘を打っている。 「んん……、いや、やめておきましょう」 そんなアメノワカヒコの様子など知る由もないオモイカネは、そう呟いて表情を戻した。 「……いいのか?」 平静を装って問いかける。彼はアメノワカヒコの変化に気付いた様子もなく、素直な返事をくれた。 「ええ。――っと、済みません、お待たせしてしまったみたいですね」 まだ金を払っていない商品を抱えたまま立ち尽くすアメノワカヒコに、待ちぼうけを食らわせてしまったとでも思ったのか、彼は申し訳なさそうに謝罪した。アメノワカヒコは首を横に振って答える。 「いや、大丈夫だよ。そんなに待ってないし」 「ですが、重かったでしょう?」 「それは貴方も同じだろう」 彼は腕に抱えた商品を一度見下ろすと、眦を下げたままそうですねと笑った。 帰りましょうと告げた彼に頷いて、商品を老人の元に持って行く。老人は商品の量に片眉を吊り上げたが、特に何も言わずにそろばんを弾いて、ボソリと金額を言った。聞くや否やその通りの金額を払うオモイカネ。聞かずとも疾うに計算して導き出していたのだろう。老人も慣れたように鼻を鳴らして毎度と呟いた。 「これだけ買ったのに、負けてくれなかったみたいだね」 店を出、市場も抜けた街道で、何気なく聞いてみた。 「ええ。負けてくれなくてもいいので、良いものを仕入れてくださいとお願いしているのです。約束通り、とても良いものを仕入れてくださっているので、私としては文句ないですよ」 満足げな横顔に、強がりも何もなく本心でそう思っているらしいことが知れた。知識があるだけに物の質に拘る彼がこれだけ手放しで称賛するにのだから、あの老人の眼は相当のものなのだろう。人は見かけに寄らないというが、まさにこういうことを言うのではないだろうか。 笑みを形取る唇が目に入る。愛らしい形をしたそれは、無限の知を湛えた炯眼に反してどこか幼気だ。だが、そうでありながら艶めかしい気配も感じる。沸き上がる衝動は、長らくアメノワカヒコを苛ませている。止めどない、触れたいという欲求。 荷物で両手が塞がっていてよかった。自分の体でありながら、自分の意思を越えて動き出そうとする瞬間があって、そのときはいっそ恐怖に襲われる。きっと触れてしまったら最後だ。元に戻れなくなる。また彼からの信頼を失ってしまう。 「――アメノワカヒコさん!」 「えっ、あっ、俺?」 「貴方以外に誰がいるんですか」 呼ばれていたことに気がついて素っ頓狂な声を上げたアメノワカヒコに、オモイカネは呆れた眼差しを向けた。確かに呼んでいたのはアメノワカヒコの名前であったし、気付けば都を抜けた人通りのない道の上。自分以外に指せる者などいるわけがない。 「そ、そうだね」 はは、と乾いた笑いを零すアメノワカヒコに、オモイカネは仕様がないと言わんばかりに眉尻を下げる。 「全く……。人の顔を見たままぼーっとして、何なんです?」 「ごめん。その、全然関係ないことを考えてて……」 「私の顔を見たまま?」 「……うん」 全くの嘘である。本当は彼の顔を見て、その身、その肌の柔らかさを夢想していた。温もりを貪る夢を見て、現実を忘れていた。だがそんなことを素直に言えるはずもなく、苦しい言い訳でごまかす。 賢い彼のことだ、騙されてはくれないだろう。そう予想していたが、彼はまるで疑いもせず、ただ困ったように笑った。 「変な方ですね、貴方は」 若葉色の瞳が甘やかに光る。血色のいい頬の下で、唇は慎ましやかに笑んだ。控え目なのに色鮮やかな微笑。 その笑み一つで音も聞こえそうなほど発熱した。わななく口は呼吸をしたいのか恋を叫びたいのか、自分でも分からない。鼓動がどんどんと体中を打ち鳴らす。そして駆け巡る劣情。 立ちくらみも起こしそうな視界で、やがてオモイカネが不思議そうに小首を傾けた。黙り込んでしまったアメノワカヒコに怪訝そうな眼差しを向ける、その様でさえ恋しいほどに愛おしい。その体を引き寄せてこの腕の中に閉じ込められたらどんなにいいか。 「――オモイカネ殿」 「はい?」 衝動と戦いながら彼を見つめる。気遣わしげな瞳は優しく、健気ささえ見えてくる。その美しい眼を失望に曇らせるにはいかない。そう思えば、まだ冷静さを呼び戻すことができた。 「……荷物、重いね」 「えっ? あ、はい」 「腕が疲れてきたから、早く帰ろうか」 「え、ええ、そうですね」 突拍子のない話の繋ぎ方に、オモイカネは戸惑いつつも頷いた。問いたげではあったが、何を遠慮してか口をつぐんだままでいてくれる。そのことをありがたく思いながら、社への道を少し足早に帰った。 気を取り直したオモイカネが、他愛もない会話を持ち掛ける。アメノワカヒコはそれにいつもの調子で答えた。いつまでこうしていられるだろうか。漠然とした不安は形になろうとしている。 |