こい、と事もなげに紡いだ唇を、ダイダラボッチはただ呆然と見つめた。
 霊廟の窓を開けたその下には池があり、その中を鯉が悠々と泳いでいる。ダイダラボッチは部屋の真ん中に座しているため、今はその様子は見えないが、いつだったか日がな一日眺めていたことがあったために覚えている。
 枕を共にしていたオモイカネが、今は窓際に緩く腰かけている。その眼がいつになくぼんやり気味なのは、目覚めてからまだ間もないからか。とはいえ、一通りの話は聞いてもらってしまっているが。
「それは“こい”ではないでしょうか」
 池を眺めながら事もなげに言う。ダイダラボッチは思わず首を傾げた。魚の話など終ぞしたことはないというのに(それならば貝の話がしたい)、なぜ鯉が出てくるのだろうか。もしかして、彼ともあろうものがまだ寝ぼけているのか。
「何で鯉なんだよ」
 不服も露わに問うと、オモイカネは不思議そうなこちらを振り向く。そして目が合うと、合点がいったように笑みを浮かべた。
「“こい”違いですね。魚ではありませんよ。感情のほうの恋です」
 若草色の眼が柔らかく細められる。窓の向こうの柳の葉よりも柔らかに。
 目が離せない人がいる。四六時中、頭のどこかに彼がいて、寝る前に月を眺めようものなら夢にも出そうなほど。一体全体どういうことなのか、意を決して相談してみたのが事の次第である。
 正直な話、オモイカネに相談するのは控えたかった。だが交友関係のいまだ少ないダイダラボッチには、彼ほど知識もありまた信頼できる友人というものもいなかった。殊に博識という面においては、本殿内に右に出るものはいないほど。相談相手として彼を選んだのは、普通なら大正解と言えるだろう。
 普通ではないのは、自分が一番承知している。吹き込んできた風に、彼の黄金に燃える月の色をした髪が揺れるのを、何とも言えない気持ちで見つめた。
「恋……。恋って、誰かのこと好きなったりする……」
「端的に言えば、そうですね。そう単純でもないですが」
 知ったような口振りだ。癇に障って、顔を背けた。
 小さく笑う声。それだけで春の花の綻ぶような微笑が容易に脳裏に浮かんだ。甘やかな幻想に、胸がぎりぎりと痛む。立てた膝に顔を埋めてもどうにもならない。
「これが、恋なら……」
「ダイダラボッチさん?」
 呟きが聞こえたか、聞こえなかったか。笑みより反転、怪訝そうな眼差しを向けるオモイカネに、ダイダラボッチは唇を噛んだ。
 その眼が、その唇が、この心を蝕んで苦しくて堪らないというのに、恋などと甘い音の言葉で片づけられるものか。その髪が、その肌が、この胸をいまだにこれでもかと焼き焦がしている。その声がこの心を安易にき乱していることなど露知らぬ美貌が、いっそ恨めしいほどに。
「オレは、認めない」
 恋とはもっと華やかで甘く爽やかなものではなかったのだろうか。深い緑と濃い陽光を浴びながら夢想したものは、無残にも打ち砕かれた。夢見たものと、今の自分が望んだものの姿が違いすぎて、泣きたくなる。
 束の間に静寂に割り込む静かな足音に、休息の時間は終わったのだと知る。独神の安否を伺う声。オモイカネの心配そうな眼差しを振り切るように立ち上がって、出入口の衾を開けた。
 あぁ、そうか。だから人は恋に狂うのか。ダイダラボッチは唐突に理解する。そして後を追ってくるオモイカネの気配に思考を乱されながら、迎えに来た独神を見下ろした。






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