空は冴えるように晴れ渡り、屋敷へと吹き抜ける風も爽やか。庭を駆け回る短刀たちの笑い声が、雲に負けじと天高く響く。
 いい天気だ。そんな外を見たとき、鶯丸は日向ぼっこでもしながら茶でも飲もうと、重い腰を上げたものだ。衾の陰で湿気りそうな程じっとしている江雪を誘って、盆を片手に縁側に出た。初夏の香気が心地よかった。
「いい天気ですね」
 江雪が呟いた。その眼は、粟田口の子らに手を引かれて駆ける小夜の姿。頑なに引き結ばれていた唇が僅かに解けたのを、鶯丸は横目に見る。
「あぁ。こういう時はゆっくりと茶を飲むに限る」
「貴方はいつも嗜んでいるではないですか」
「季節や気候によって茶の味も変わる。それを楽しまないでどうするんだ」
 何の変哲もない、その辺の安い急須と湯呑み。どちらもシンプルすぎる白いものだが、いざ注いでみると白に茶の若緑がよく映えた。悪くない。目で楽しむのも、一つの嗜み方だ。
 それを江雪の手に渡す。彼の表情は穏やかだった。いただきます、とどこか恭しげに呟くと、薄い飲み口を口元へと持っていく。いつものような馬鹿みたいに礼儀正しい所作だった。
 江雪に倣うようにして、湯呑みを口に持っていく。湯気と共に香る緑茶の芳香。それに紛れてふと水の気配を感じて、鶯丸は顔を上げた。
 いい天気だ。目にも鮮やかな木々の緑と空の水色。そこにまさしく水を差すように、雨が降り出していた。耳は葉擦れの音よりも雨音を拾う。短刀たちが楽しげな悲鳴をあげながら、わらわらと軒下に逃げ込んでいた。
「天気雨か」
「珍しいですね」
 空気が俄かに湿気を帯びる。肌にまとわりつくような気配。しかし空は嘘のように晴れている。狐につままれたかのような五感の差異に、脳裏を過っては瞬く間に消えた言葉はなんだったか。
「こういうのを、なんと言ったか……」
 探しあぐねて零した独り言を、江雪が丁寧に拾ってくれた。
「天気雨、ではなく?」
「あぁ……」
「――日照り雨かぁ」
 降りてきた声に振り向くと、部屋の奥から現れた薬研が、難しい顔をして空を見ていた。日照り雨。そんな言い方もあったかと思い出すが、鶯丸が思い出そうとしていたのは、それとは全く違う言い回しだ。
 そうとは知らない薬研が、面倒くさそうに頭を掻いた。
「洗濯物が濡れちまったな。取り込まねぇと……」
 嘆く薬研を尻目に、雨は無情にも晴天の下で降り続く。だが先よりは弱まっているように見えた。
「手伝いましょうか?」
 湯呑みを置き、立ち上がりかけた江雪を、薬研は手で制す。そのままスタスタと物干し竿のある方向へ歩き出した。
「いや、旦那方はそこでゆっくりしててくれ。こっちはこっちでやる。……いいのもいるしな」
 にやりと笑って顎でしゃくった先には、厚の姿。兄弟に手伝わせるつもりか。獲物に逃げられる前にと駈け出した薬研に、江雪は浮かしかけた腰を降ろした。
 そこでふっと思い出す。あ、と零した声に、江雪が振り向いた。
「何か?」
「思い出した。狐の嫁入りだ」
 今度は江雪がああ、と声を零した。そうして外を見る。雨は地面を僅かに湿しただけで、もうほとんど止んでいた。
「確かにそんな言い方もありましたね」
「由来は知らないがな」
「えぇ。何故なのでしょうね」
 江雪は疑問の言葉を口にする。だが今ここで詮索するという野暮なことをすることはなく、手の中の湯呑に目を落とした。
 雨の残していった独特の匂い。それを吹き飛ばすかのように、爽やかな風が屋敷の中へと吹き込む。湿っていた空気もあっという間に乾いて、先の心地よさが戻った。本格的な夏に入る前の、丁度いい時節の空気だ。
 手の中の湯呑は温もりが残っているものの、中の茶はぬるくなっていることだろう。淹れ直そうかなと思っていると、「ぬるくなってしまいましたね。淹れ直しましょうか?」と隣人が問う。
 鶯丸は思わず笑った。突然のことに目を丸くする江雪が、今にも首を傾げそうなほど。
「済まない。何でもないんだ。淹れ直してもらえるか?」
 えぇ、と頷いた江雪に、湯呑みを渡す。両手で受け取ろうとするその手つきは、やはりどこか恭しい。育ちの良さが端々に見て取れる。
 そうして茶を淹れ直す江雪の傍ら、鶯丸は空を見上げた。どこぞの狐が嫁入りしたようだが、こちらはまるで長年連れ添った番とともに居るかのような気分だ。揺れる木漏れ日に目を細めながら、隣人からの声に耳を澄ませた。






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