たまに出る冥界の外は、あの暗がりに慣れた身としては眩しいものだ。出入口となる洞窟から出た瞬間の、眼を刺すような太陽の光には、毎度のことながら眩む。この瞬間ばかりは苦手だ。地下に住まう者の宿命だろうか。
 目を慣らしてから向かうのは、バビロニア図書館。医療神として、医学の研鑚に書物は欠かせない。この図書館には他地域の医学書も集められているから、知識を蓄えるには持ってこいだ。
 無論、現場での経験に勝るものはないだろう。だが知識がなければ経験もそのほとんどが徒労に終わるのではないだろうか。その考え故に、ニンアズは貪欲に知識を取り込む。
「――そろそろ閉館したいんだけど、いいかしら?」
 不意の声に、ハッと顔を上げた。ランプを手にするニサバが、淡々とこちらを見下ろしている。辺りは薄暗く、ランプの周囲だけが柔らかな色合いをしていた。
「あ、あぁ、済まない。没頭し過ぎた」
 慌てて本を閉じて立ち上がる。それに彼女は緩やかに首を振った。
「それは構わないけれど。よく読めるわね、こんな暗がりで」
「冥界で慣れてるからな」
「目を悪くするわよ。と言っても、もう遅いかしら」
「……これ以上悪くならないよう、善処する」
 眼鏡を最適な位置に戻しながら答える。実はもうすでに相当悪いところまで来ているのだが、言うに言えなかった。
 片すわ、と言って手を出した彼女の好意に甘えて、本を渡した。出入口ではやはりランプを持ったナブーが、気を付けて帰ってね、と言う。ニンアズは一つ返事をした。外ではまだ低い位置に月がいた。
 月と言えば、長兄であるシンは月神である。ただ一人、地上にて生まれたシンは、そのために彼が冥界を訪れることはなく、冥界に住む自分たち兄妹とはあまり交流がない。月が地下に沈むわけにはいかないのだから、それは仕方のないことだ。
 それでも兄は兄であった。稀に外に出れば、彼は兄らしい慈しみと厳しさとで接してくれる。一人っ子も同然に育ったはずの彼だが、妹分のシャマシュがいたために、元より有していた兄としての素質が十二分に育ったのだろう。そしてシャマシュと妹のエンビルルはどこか似ていた。
 無邪気にシンに話しかけられる妹の物怖じのなさが、少し羨ましい。自分はどうしてもどこか遠慮がちになってしまう。兄弟らしい親しみを持っているのかと問われれば、それにも答えられないだろう。実感が、どことなく遠いのだ。
 彼は自分たちのことをどう思っているのだろう。一人地上に取り残されて、本当は恨んでいやしないか。そんなことを時々考えた。それは兄弟であると分かっているのに、兄弟と思えないでいる自分がいることへの罪悪感から来るものでもあった。
 ――月はそこそこ高いところまで登ってきていた。白々としながらも、淡い光を放つばかりの月輪。その直下には月の神殿。こんなにも月光の眩しい夜は、あの兄は何をしているのだろうか。
 脳裏を過る姿に誘われて、足が月の下に向かう。決して兄が恋しいわけではない。
「――珍しい奴がいたもんじゃ」
 星神のアスタルがいた。月の神殿に向かっていたはずではと、体に動揺が走る。だが考えてみれば、太陽・月・星の神殿は比較的近い場所に置かれてあるため、三柱のいずれと道中で出会ってもおかしいことではない。現に今いる場所は、星の神殿がもっとも近かった。
 どれだけの古い神なのか知れないが、相当長生きをしているらしいアスタル。愛らしい小動物の姿に老人口調がミスマッチだが、ある意味それが彼らしさでもあるのか。彼の身に着けた装飾品が、暗がりの中でも星のように瞬くかのようだった。
「シンに会いに来たのか?」
 問いに、躊躇いがどこからともなく現れた。言葉を額面通りに受け止めればそれは、否だが。
「――いえ……、図書館の帰りです」
「ふむ、そうか」
 ニンアズの返答に、アスタルは特に何も言わなかった。シャラン、と杖を揺らめかせながら、すぐ側の星の神殿へと帰ろうとする。だが大きな瞳はその無邪気そうな見た目に反して、何かに勘付いているような光を宿していた。
「まぁ、こんな月の夜じゃ。あやつも中に籠ってはおるまいよ」
 あくまでも独り言だと言わんばかりに呟いて、アスタルは去って行く。ニンアズは内心、穏やかではなかった。自分自身ですら判然としない心持を知られたくはなかった。ましてや彼は一を聞いて十を知るかのような経験者だ。自分の知らぬことすらもお見通しなのかと思うと、ひたすら怖い。
 帰ろうか。そう思った時には、月は天頂に至りそうだった。優しい光に目が眩む。冥界よりも神殿のほうが近い、と思った瞬間にはもう足がそちらへ進んでいた。
 行ってどうするのだろうという気持ちは、勿論この道中ずっと心にあった。兄弟なのだから会うのに理由もいらないだろう。だが兄弟とも碌に思っていないのに、どうして理由もなく、しかもこんな夜中に会いに行けるだろうか。そんなことを逐一気にする人でもないとは思うが、理由がなければ何より自分が納得できない。
 だが納得などできなくても足は進む。これまでにも何度か訪れたことのある神殿。月の光を受けて、その佇まいからは日中には見せない荘厳さが放たれていた。
 足を忍ばせたその中は、暗い。なお響く足音に、息すらも潜ませる。最奥の祭壇には、天窓からの月光が煌々と射し込んでいる。だがそこにあの姿はない。
 中に籠ってはおるまいよ。アスタルの言葉が耳の奥で再生された。一つ、深く息を吐いて、中庭へと続く扉へ向かう。闇の中ではあったが、扉の隙間から漏れる光が場所を示した。この向こうには、月の光溢れる彼の庭があると言う。
 緊張に震える手で開けた先には、何という月の姿。冷たく清らかな夜風に、まとうヴェールが踊る。揺れる銀の髪。光に白く染まる手が、片方は杖を、片方は請う様に天へと伸ばされる。月からの恵みを一身に浴びる姿。これがバビロニアの月神。
 それも束の間、中庭の中央に立つシンは徐に振り向いて、その相貌を見せた。
「誰かと思ったら、ニンアズか。珍しいな、お前が僕の元を訪れるなんて」
 浮かべられる微笑は清廉でもあり、妖艶でもある。日の下ではただ穏やかなばかりだと思っていた表情も、月の下では揺らめくように印象が変わった。秘められていたものが解放されたと言うべきなのか。魅惑的とも言える容貌は、月光と共にあってこそ月神と言わんばかり。
 柔らかな足音と共に、シンが歩み寄る。月を背に、翳りの中でアイスブルーの瞳だけが光を吸って煌いた。その清らな色の妖しさに思わず息を飲む。
「どうしたんだ?」
 優しげな問いに返せる答えが、ニンアズにはなかった。
「……近くを、通ったからな」
「近く? ……あぁ、図書館か」
 苦し紛れの返答に察してか、シンは一瞬、不思議そうな顔をしたが、すぐに納得したように頷いた。図書館の名が出てきたのも、常日頃の医術を磨かんとするニンアズの行動を理解してのことだろう。彼は己の周囲をよく見ている。
「早く帰らないと、エンビルルが心配するんじゃないか?」
「あぁ、分かってる」
「いや、追い返そうとしてるんじゃない。なんなら泊まっていってもいいが」
「それは……遠慮しておく」
「はは、連れないな。まぁ、住み慣れたところが一番ということか」
 彼は慎ましやかに笑った。薄い唇が、緩やかな弧を描く。その僅かな凹凸に、月の光が明暗を乗せた。化粧をしているわけでもないのに艶めく口唇。浮かび上がる仄かな色。
 突然ニンアズは喉の渇きを覚えて、視線を地面のほうへとやった。無い唾を掻き集めて飲み込んでも、喉に少し引っかかるばかりだ。飢えにも似た欲求が、体中を這いずり回る。
「――帰る」
 堪らずニンアズは踵を返した。背でシンの驚いたような気配を感じたが、構ってなどいられない。思い出した罪悪感から早く立ち去りたい一心だった。
「そうか。気を付けて帰れよ。月明りがあるからと言って、油断してはいけない」
 背後からの声かけに、おざなりな返事をした。早々に扉を開けて、暗闇へと逃げ込む。響く足音の荒さが耳障りだ。
 だが暗闇に身を投じて、少し冷静になった。帰るとは言ったものの、あからさまに逃げるような足取りをしてしまっているのではないかと、客観的な視点を取り戻す。気遣う兄への返事も、些か乱暴ではなかったか。
 ニンアズは足を止めた。見送ってくれているシンの、その姿を直視することはできない。だが振り向く素振りを見せて、重い口を開いた。
「……おやすみ」
 平然を装って絞り出した声は、喉に違和感をもたらした。それでも背には微笑の気配が伝わってくる。おやすみ、という返事の柔らかさが、何よりも如実にそれを知らしめた。
 できるだけ落ち着いて、しかしながら足早に、神殿を出る。辺りを密やかに照らす月、その光はあの中庭に射していたよりも幾らか弱いように思えた。シンがいたから眩しく感じられたのか、それともシンに対しては月も殊更光輝くのか。
 そよぐ風にざわめく木々の音を意識遠くに聞きながら、忘れられずに思い出す痩躯。喉の渇きはいまだ衰えず、ニンアズを苛ませた。あの微かな笑みに食らいついて、思うがままに貪りつくして、乾いた舌を潤わせたい。ざらついた舌が、知りもしない悦楽を求めてうごめく。
 相手は兄だ。だが兄だと確かに認識するには、会うのが遅すぎたようだ。ネルガルより上に、さらに兄が存在しているということを知ったのは、物心がついてしばらくしてからのこと。それまではずっとネルガルがただ一人の兄であり、エンビルルがただ一人の妹だった。
 初めて対面したときの優美な姿は、今でも鮮明に覚えている。母にも似ない、ましてや父にも似ない雰囲気は、それこそ兄妹の誰にも似ていないように思えた。どこに面影を見出せばいいのか悩んでしまうくらいだ。今でこそ、確かに同じ両親の元に生まれたのだと感じる部分も見えるようにはなったが。
 長兄は見惚れそうになるほど美しかった。今思えば、その時からすでに浅ましい欲が目覚めていたのかも知れない。あの姿態を暴きたいという、獣のような自分が身を屈めていたのだ。
 ほぼ無意識の内に辿り着いた、冥界へと続く洞窟。地下へと降りて行きながら、心の奥で猛り咆哮する獣も死に逝けばいいのにと願った。






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