夏の午後、池の反射の煌めきで目が覚めた。だが気付いてみれば庭に池など在らず、全て夢の出来事だったのだと思い知らされた。
 時計は夕刻を表し、夕食の支度に取り掛からねばならない頃合いだった。はっとした田沼は慌てて身を起こし、台所に駆け込んでは冷蔵庫をがばりと開ける。涼しい冷気に包まれての、冷蔵庫との睨めっこ。結論として、中にめぼしい食材はなかった。
 猛暑にだらけて、買い出しを怠った付けが回ってきたようだ。いい加減何かしらを買い込んでおかねば、水道水が食事になってしまう。この飽食の時代、飢えて死ぬなど笑い話にもならない。田沼は心を決め、冷蔵庫を閉じると、その重い腰を持ち上げた。

「行ってきます」

 父はどこぞの法要で不在。自然と誰もいなくなる我が家に、田沼はそっと呟いた。特に意味はない、単なる習慣だ。
 酷く簡易な服装で飛び出した外は、まさにうだるような暑さに蒸されていた。傾いてもなお突き刺すような日差しに、立ち上る陽炎。遠くには逃げ水さえ揺らめいて、田沼を誘うように煌めくにもかかわらず、一歩たりとも近付けさせてくれない。灼熱が生み出した幻覚に、田沼は辟易した。
 どっと吹き出す汗に拭うことも追い付かず、ただ服が汗に濡れるのを心配する。色の薄いシャツを着ているからいいものの、さりとて汗染みは恥ずかしい。多少夕食の時間に遅れても、もう少し日が落ちてから出かければよかったかと後悔。後悔先に立たずとは、よく言ったものだ。
 そうして差し掛かった、小高い山の袂の道。木々が鬱蒼と枝を伸ばして濃い影を道に落とし、陽炎も逃げ水も鳴りを潜める中を、田沼は安堵の息を零し行く。遮られた日差しに幾分弱まる暑さが、今では大きな救いだ。心なしか吹き抜ける風も涼しい。
 そこへがさりと響く、風ではない茂みからの鳴り。何だろうと振り向くと、そこから何者かが茂みから躍り出た。

「うわッ」

 つい声を上げ、相手を凝視する。木の葉を付けた薄い色の髪は見慣れたもので、田沼は俄かに張り詰めた緊張を解いた。

「夏目……?」

「あ……、田沼……」

 息を乱している夏目は何故かきょろきょろと辺りを見回し、やがてほうと安堵の息を吐く。何かに追われているのか。田沼も何とはなしに辺りを見渡したが、見えるものなど側の木々と反対側の田園風景しかなかった。

「こんなところから……、どうかしたのか?」

 思い当たる節に心を痛めつつも、何気ない風を装って尋ねた。汗を拭っていた夏目は一瞬目を丸くしたが、すぐに平生を取り戻したように田沼を見る。真っ直ぐな眼差しからは、ほんの少しだけ動揺の色が見え隠れしていた。

「ニャンコ先生を探してたんだ。とんぼとか見ると、すぐに追っ掛けていなくなっちゃうから」

 ふと笑いかける夏目。淀みなく流れた言葉に、嘘はないのだろう。だが田沼を心配させまいと吐いた誤魔化しには違いない。僅かに感じている不穏な空気に、気付かないと思っているのだろうか。
 つきん、とこめかみに差した痛みに、夏目がはっとしたように身を固めた。思わず手をやると、ほぼ同時に夏目が背を向ける。今ある真実を何一つ告げることなく、彼は行くのか。

「悪い、先生の姿が見えたから。じゃぁ!」

 ざぁ、と吹き抜けた生ぬるい風に押されるがごとく、夏目は駆け出し去っていった。遠ざかる華奢な背を見ながら、突然の頭痛をやり過ごす。ただの偏頭痛だと、思い込みたかった。
 木漏れ日すらない木陰の下で、一人佇む田沼。もう見えなくなっている夏目を見つめ、じくじくと痛む胸を押さえた。すぐそこに在る視えない世界に、夏目が取り込まれてしまったような感覚。感知できるのに目視できない枷に、足を絡め取られて動けないまま。
 庭の池にしろ、先の風にしろ、正体は解っているだ。なのに認知できない。それが歯痒くて堪らない。いつかそれらに夏目が連れていかれそうで、怖い。視えないものを求めたりはしないから、せめて夏目だけは確かであってほしいのに、どうして確かめる術を自分は持っていないのだろう。

「……やだなぁ」

 やっとのことで歩きだし、影から抜けた日の下で呟いた。容赦ない照りは再び陽炎を揺らめかせ、遠くに逃げ水の誘惑。近づこうにも近付けず、決して触れること叶わないそれらに、田沼は少し目を伏せた。自然が作り出した幻覚に、ただの人間が近付けるはずもない。
 妖と関わり、それを一言も田沼に告げない夏目。彼にこれ以上近付ける術を持たない田沼は、ただ汗を一雫滴らせた。言い知れぬ切なさを抱き、自室の天井の隅に映る波紋に焦がれながら、影の池に心を静める。暗く深い水底へ。





陽炎、逃げ水、視えない世界






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