後先考えずに駆け出してから、どれほどの時間が経っただろう。彼の手を取った日から、全てが自分を祝福しているように思える。柔らかな日差し、そよぐ風、目にも鮮やかな緑。世界が一変したかのような感覚。 しかしてそれが今、隣にいる彼も同じかと問われたら、オズには答えられない。家を飛び出す以前を思えば、比べられないほどに二人の距離は縮まったが、それは決して問いの基準に沿わない。人には慣れというものがあり、彼が単にそこに足を踏み入れているだけという可能性があるからだ。 手を差し出せば、呆れた顔で同じく延べられる彼の手。そこにかつての躊躇いはない。だがそれが必ずしも彼が気を許したことに繋がるとは限らない。人間界の摂理だ。人の悲しい性だ。家の束縛から解き放たれても、こればかりは逃れようがない。 あの夜、あれほど有り余っていた勇気。使いきってしまったのだろうか。彼に問うことができない。勘違いを突き付けられるのが怖い。手を繋げない。 「おい、オズ?」 彼に名を呼ばれ、我に返る。思考に没頭するあまり、彼の声を聞き逃すとは失態だ。取り繕うようにだらしなく笑えば、彼は呆れたように肩を落とした。 「え、何?エリオット」 「いや……、なんか深刻そうな顔してたからな」 「……そんな顔、してた?」 あぁ、と答える彼に、オズは自らの頬に手を当てた。心配されるほど顔に出てたのか。恥ずかしさに頬が火照る。まさか彼の心が知りたいあまりに悩んでいたとは言えず、もごもごと言葉を噛み砕いた。 さてどうしたものかと彼を見れば、彼は腕を組んだ姿でじっとオズを見ている。高鳴る鼓動は何故だろう。初恋のときめきに似ている。もう長いこと一緒にいるような気がしているのに、実はあの駈け落ちが昨日の夜のことだったりするのだろうか。 まさかだ。一夜では納まりきれない記憶が、目蓋の裏に刻まれている。彼への恋情がなくなっていないだけだ。今までも、これからも、彼に恋していくのだろう。彼もそうだったらいいのにと、オズは思う。 「なぁ」 唐突に口を開いた彼。その眼差しは強く真っ直ぐなのに優しげだった。 「もしかして、後悔しているのか?」 穏やかに彼は問う。あまりの優しげな口調に受け流しそうになったが、この問いにそれをすることは自分が許さない。オズは持てる限りの力で首を振り、否定をした。 彼と共にしたこれまでの日々は、彼と出会う以前とは打って変わって幸福に満ちていた。以前が不幸だったとは言わない。だが比べられないほどに幸福の密度が違った。こんな満ち足りた時間がこの世界には存在していたのかと思うほどに、全てが煌めいている。 そこに陰りを生じさせたのは、他ならない自分自身の疑念だ。彼の鮮麗な眼に映る世界が陰ってはいないかと、世界に溢れる歓びを共有できていないのかと思うと、例えようのない寂しさと悲しさに襲われるのだ。彼の幸せを願えば願うほど、疑念は深まる。 「オレは後悔してないぞ。お前とここまで来たことを」 「え……?」 彼はオズの疑念を否定した。力強い口調で、これまでの日々を肯定する。オズはそんな彼に自分の愚かさを知り、俯いていた顔を思いきり上げた。彼の眼はとても綺麗だった。 「なぁお前、気付いているか?」 そっと尋ねてきた彼が、間近に寄ってくる。距離などなくなってしまうまでに近づいた彼は、よくしかめっ面をするその顔を緩やかに綻ばせた。 「オレとお前の目線の高さ、同じになってるんだぜ」 オズは目を丸くした。言われてから気付く、差のなくなった身長の高さ。以前は幾分かオズが小さかったのだが、今は同じ高さだ。普段、何気なく見ている景色が、気付かぬ内に同じものになっていたのだ。 距離はさらに縮まり、彼からの触れるだけの口付け。閉じた視界の暗闇さえ色付くような心地。オズは酔い痴れ、夢見心地を現実のものとする感覚に胸踊らせた。もはや想いを遮るものなどない。想うがままに、彼を愛するだけだ。 あっという間に離れていく彼の手を取り、引き寄せる。再び縮まる距離を、彼の体を抱き締めることでゼロにした。 「ありがと。オレもう大丈夫」 「……当たり前だ。オレを勝手に連れだした責任、まだまだ取りきれてないぞ」 彼の珍しくふざけた物言いに、オズはつい吹き出す。その言葉は暗にこれからも共にあることを望んでいて、幸福という名の歓喜がオズの中で明るく弾けた。なんという幸せ。なんという愛しさ。なにものにも代えられない希望。 彼の手を取って、もう一度走りだせる。未来は彼なしでは切り開けないと、運命が囁いた気がした。 ‐‐‐‐‐ エリオズみたいなオズエリ。 立ち止まってしまったオズを引っ張るエリオット。前は引っ張られっぱなしだったしね。 |