別邸の日当たりのいい庭に植えられた紅梅が、至る所で綻びはじめた。五分咲きといった紅の花弁にくちばしを寄せるのは、白い隈取りの眩しい目白。なぜ鶯ではないのかと何とはなしに思ったが、すぐにどうでもよくなった。
 薄暗い縁側から梅の木を見やる的場を、目白は気付かぬままに戯れる。手近な枝へと移りながら、枝を突きつつ花弁を震わす。ひとしきり枝で遊び、羽づくろいを済ませると、目白は済ました顔でどこかへ飛び去った。鳥は気紛れで良いものだ。的場は特に感慨も湧かぬ心持ちで思う。
 そこへ現れた人の気配に、的場は正門寄りの庭の先に目を移した。無防備なその人の気配にある人物を予想しつつ、じっとそちらを見やる。さくさくと響く足音の終着に見えた姿に、やはりと口元を緩めた。

「あ……、こんにちは」

 不安げな色を黒色の瞳に湛えていた田沼が、的場を目にして安堵の色を上塗りした。常日頃からきな臭い場所に身を置いているせいか、その解りやすい意思表示が何とも愛らしく思える。久しく忘れていた和やかな思いが、心の中に芽生えた。

「こんにちは。よく来ましたね」

 微笑めば、同じく微笑みが返ってくる。やはり幾久しく見ていない純粋な笑顔だ。腹に一物も二物も持っているような輩相手には、そんな綺麗なものなど返ってきはしない。上辺だけの美しさに見飽きた的場に、田沼の笑みは心に染みるようだった。

「上がりなさい。ここに来るまで、何か問題はありませんでしたか?」

 田沼宅から見てこの東の森には、彼の住まう八ッ原と同じくらい妖が潜んでいる。仮に数は同じとしても、こちらのほうがきっと悪質だろう。彼は妖の毒気に弱い体質をしているために、途中で体調を崩しかけたかもしれなかった。
 最初、田沼がこの別邸を訪れたいと言ったとき、的場は懸念して迎えに行くと言った。だが彼はここまでの道のりを覚えたいからと、拒否したのだ。穏やかだが頑なな意思に申し出を引っ込めたが、ずっと気掛かりだった。

「大丈夫でしたよ。あ、お邪魔します」

 縁側から靴をそろえて上がってきた田沼が、事もなげに答える。日の射さない暗がりで見た彼の顔色は普段通りで、嘘や強がりではないのだと理解した。彼は嘘を吐くような子供ではないが、時に心配させまいと気丈に振る舞うことがある。
 年端も行かない子供のくせに、大人のような気配りを見せる田沼は、的場を見るなり微笑んだ。その性質を表すかのような、静謐さと無邪気さを交ぜた笑み。今の彼にしか作れないその笑顔に、彼の背後の紅い梅花が霞んだ気がした。

「意外と心配性なんですね」

 馬鹿にした風でもなく、少し嬉しそうな眼の色でそう言った田沼に、的場は言葉を失う。目に見えるほど顔に表れていたのか、ただ彼の洞察力が優れているからなのか。どちらにしろ彼にこの心情が知られていることは明らかなようだ。
 だが他人にしろ当人にしろ、これだけは誰も知るまい。彼へ向ける不安の側に、かつての青ざめた幼い顔が過っていることなど。その体質ゆえにその場にいるだけで死の瀬戸際まで追いやられ、それでもなお恐怖に耐えんとする漆黒の瞳。あれに煽られるは持ち主への懸念以外の何物でもない。
 二度とは見たくないのだと、事あるごとに思う。あの時、心の内に宿った感情は、何も憐憫だけではない。言い知れない不安すら的場に思い出させた光景を、焼き付いたままにしてそっと秘めておく。これは戒めだ。

「……こんな山奥で何かあったら、君を探すのに容易ではないから言っているのです」

「解ってます。済みません。でも……」

 着込んだ暗色のジャケットの内ポケットから田沼が取り出したのは、手のひらに納まるほどの紙人形。以前、彼の身を案じた的場が、護身のためにと作った魔除けだ。普段、魔除けの類など作ることのない的場が久方ぶりに作った、それ。

「これがありますから」

 壊れ物を扱うがごとく手のひらに納め、愛おしげにそれを見つめる。伏し目がちになり覆う睫毛の間から覗く黒い瞳が、そこはかとない慕情を湛えて光っていた。この汚れの多い世界において、なんと清らかで美しく尊いものだろうと感じる。

「大事に持っていてくれているのですね」

「もちろんですよ」

 純粋なまでにか黒い瞳を細め、頷く田沼。的場はつられるようにして微笑むと、彼の柔らかな髪をそっと撫ぜた。大人への反抗を見せる年頃だというのに、彼はただくすぐったそうに笑うのみで、全てを的場に任せたまま。親へ向けるような彼からの信頼を、手のひらで感じる。
 ふと軽やかな羽ばたきが聞こえ外を見やると、梅に再び小鳥が止まろうとしていた。先程の目白だろうか。たわむ枝に臆することなく羽を休める。

「梅に鶯ですね」

 だが田沼は春の色をした鳥を鶯だという。やや不自由な隻眼で鳥をじっと見れば、確かに白い縁取りのない鶯だ。いつの間にか目白と鶯が入れ代わったようだ。古来よりよく間違われる両者だが、梅の枝に集う様はよく似ている。
 気付けば日差しが縁側を穏やかに照らし、足元を暖めている。下手に奥座敷に閉じこもるより、ここにいたほうが寒くなくていいだろう。鶯のさえずりを聞きながらの談笑も、時には一興だ。普段の自身としては柄ではないが、傍らの少年は享受してくれるに違いない。

「少しここでゆっくりしましょうか。奥より暖かいはずだ」

「あぁ、それがいいですね」

 鶯の馴染み深いさえずりが、刹那に響き渡る。春先の穏やかな日和り。










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“梅に鶯”は仲の良い取り合わせの例え。
静司と田沼の仲とかけてみたり……






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