妖の能力とは、人知の到底及ばぬ場所にある。風を呼ぶに然り、吹雪かせるに然り、自然現象を操るなどその世界では常識の範疇内といえよう。科学の世界では、それを非常識でありながらも非常に魅力的なものだと捉えるだろう。だが的場にとっては、それは単なる厄介な力でしかなかった。
 雨ふらし、とでも呼べばいいのだろうか。捉えて新たな式にしようとした妖は、自身に危険が及ぼうとしていることに気付くや否や、雨雲を呼び出して雨を降らせはじめた。単なる雨なら問題ないが、妖は雨雲に多量の毒気を孕ませたから面倒だ。毒気の凝縮された雨粒は、耐性のある的場ならいざ知らず、その他の耐性のない存在には多大な影響をもたらしてしまう。
 力の強さは魅力的だが、制御の利かない無差別な力などに価値はない。非常識が殊更疎んじられるようになった今の世において、理解の得られない力をただ振る舞われるのは大迷惑だ。その力に見合う器用さや理解力のない馬鹿な妖は、的場には必要ない。さっさと見切るに限る。
 従えていた式に指示を出しつつ、的場は妖と対峙していた雑木林を抜けた。雨は広範囲に渡っていて、アスファルトの道に出てもしとしとと降り続いている。人家が疎らなのが不幸中の幸いだが、面倒なものに当たってしまったことに、的場は舌打ちを禁じえなかった。
 弓の一式を調教の行き届いた式に預け、的場は駆け出した。パーカーのフードはかぶったものの、このまま濡れそぼってしまっては元も子もない。第一この雨には先程の妖の毒気を含んでいる。当たり続けていたら、さすがの自分でもどうなってしまうか解らない。できることならば雨宿りがしたいと思った。
 その矢先に、ふと視界に入った寺。決して大きいとは言えないが、そこそこ年季のありそうなそこは、異常なほど清浄な空気に包まれていた。この毒気の雨にも汚されないほどの、強力な清浄感。どれほどの人物が住んでいるのかと興味を引かれ、的場は思わずその門をくぐった。
 敷地内に入った瞬間、雨の質が変わったことについ安堵する。普通の雨に打たれながら石畳を辿り、本堂の中を覗くが、人の気配はない。ならば奥の人家かとそちらを見やると、タイミングよく玄関ががらりと開いた。

「……あの子は」

 玄関から姿を現した住民らしき少年に、的場は驚きを顕にした。その少年は彼の夏目貴志の友人であり、自分が気紛れに助けたことのある田沼要だった。そういえば彼の父が僧侶であったことを思い出し、思いがけない偶然に納得する。
 田沼も雨の中の来客に驚いたのか、玄関の戸に手をかけたまま呆然としていた。的場はすかさず対人用の笑みを顔に貼りつけ、あたかも偶然寄り掛かった一般人のごとく振る舞う。

「すみません。散歩中に雨に降られてしまって、雨宿りをさせてもらってます」

 無難な理由を取り繕って困ったように微笑めば、田沼は疑うことなくそれを受け入れて、戸惑いがちに会釈をした。

「それは……大変でしたね」

 口下手そうにそう述べた後、田沼は慌てて家屋へと引き戻った。しばらくして戻ってきた彼の手には、どこにでもあるような真っ白なタオル。何事かと的場は瞬きをした。
 傘を差してやってきた田沼が、そのタオルをそっと差し出してくる。僅かに下の位置にあるその顔には、隠しきれない緊張を湛えた笑みが浮かべられていた。

「どうぞ、使ってください」

 遅れ馳せながら、それが濡れた体を拭くために出されたのだと合点が行った。断ることもないので、有り難くタオルを受け取る。

「ありがとうございます」

 濡れた顔を拭い、すでに水分を多量に吸っている服にもタオルを当てる。その横で田沼は立ち去ることなく、無言で空を見ていた。
 何を考えているのだろう。薄暗い空をぼんやりと眺めるその横顔は、以前に見たときよりも血色がよかったが、眼差しはどことなく不安げだった。力は弱くても持っているなりに、この雨の邪悪さを感知しているのだろうか。他者の感じている感覚など、知りようもないが。

「いきなり降りだすなんて、変な天気ですね」

 ぽつりと田沼から零れた言葉に、的場は肯定の相槌を打った。そうしながら、彼の見せる憂いの理由が何故だか無性に知りたくなった。

「こんな突然の雨には、気を付けたほうがいい」

 知りたいからといって直球を投げ掛けるわけにも行かず、場違いともいえる忠告の言葉を発した。隣の田沼はやはり呆然とこちらを見上げている。はた目から見れば、自分が一番気を付けなければならない立場にあるのだ。変に思われても致し方ない。
 だがこの雨の一番の問題点を知る的場にとっては、ごく自然な忠告。妖の毒気に弱い田沼が敷地内から出てこの雨を浴びれば、普通の雨に打たれて風邪を引くよりも危険なことになる。それはあってはならないことだと、本能的に思った。

「突然降る雨には、危険なものが含まれている場合があります。弱い人は殊更気を付けなければ、危ないですよ」

 ともすれば科学的な意味合いで捉えられそうな忠告だったが、田沼はどう捉えただろうか。ややあって肯定の相槌を打った彼は、その体質ゆえか的場の言葉を真の意味で理解したような眼で、小さく頷いた。取り敢えず今日のところはこれくらいでいいかと、的場も口を閉ざす。
 やがて雨は上がり、あっという間に雨雲は去って快晴の空模様となった。爽やかな風を全身に受け、肌であの危険性が過ぎ去ったのを理解する。ようやく帰れると、どことなく名残惜しい感覚で思った。

「晴れたことですので、帰りますね。タオルは……」

 洗って返すと言おうとしたところで、田沼にそのタオルを掴まれた。

「いいです。そのままで大丈夫ですから、風邪引く前に早く……」

 そういう田沼の目付きは存外に力強く、ここで我を通せば押し問答になりそうだと感じた。年配の人間にありがちなあの善意の押しつけ合いが嫌いな的場は、多少厚かましさを感じられても構わないかと思い、おとなしくタオルを手放す。

「では、お言葉に甘えて」

 謝罪を述べると、田沼は人のよさそうな笑みを浮かべて首を横に振った。年若いなりによくできた人間だと思わせるような言動が、彼なりに苦労などがあったのだろうと思わせた。
 別れの挨拶を簡単に告げてから、再び門をくぐる。濡れた地面からは微かに毒気が放たれているものの、すぐに消えてなくなるだろうと思われた。もう問題はあるまい。あったとしてもそれはもはや的場の知るところではない。金を出さない人間のためにまで、自分の善意や力を振る舞うつもりはなかった。
 ふと振り向けば、田沼が今だに自分を見送っている。もう一度会釈をすると、彼も同じく頭を下げて、その光景に思わず笑みが零れた。そこには自分に不釣り合いなほどの穏やかさがあったが、不思議と違和感や嫌な気持ちはしなかった。
 次また会えるかも解らない今回の出会いだったが、どういうわけか再び会えるような予感が的場にはあった。今はその偶然に身を任せるとして、一先ず帰ろうと仲間を探す。寺に入る前に式に仲間を呼ぶよう指示を出しておいたから、そろそろ来ているはずだ。
 清浄の空気の隙間から、自分の式が放つ陰湿な気配を感じ取り、そちらへと足を向ける。込み上げてきた愉快な気持ちに、的場は口角を吊り上げた。










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前の話の内容にほとんど触れていないとか、阿呆みたい。






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