追試に追われ、校舎を出る頃には日はすっかり落ちていた。帰路を街灯のどこか頼りない光が照らす。人の気配のない道は、そこはかとなく不安な気持ちを過らせた。
 そこへ目の前に躍り出る人物。細身の体躯の男が立ちはだかる様に一瞬肝を冷やしつつも、見知った顔に安堵の息を零した。

「社長」

 白いシャツに黒のベスト、きちっと首まで締めたネクタイといったいつもの格好で、鼎が目を丸くした。向こうもこの暗がりで一瞬、気付かなかったらしい。

「よぉ。今頃帰りか?」

 普段の風体で相貌を崩した鼎が問うた。何か嫌味なことを言われそうで、軽く目を逸らしながら曖昧に頷く。だが鼎がそれ以上言及してくることはなかった。

「そうか。俺も帰りなんだ、一緒に帰ろうぜ」

 優しげな笑みを浮かべて、鼎は実虎を見つめた。立ち止まったまま動かず、ただじっと実虎が行くのを待っている。どことなく、そちらへ来てほしそうな眼差しをしていた。
 同じ家に住んでいて、同じく帰りだというのなら、誰もその提案に首を振るまい。なのに何故、否定を予想しているような眼をするのか、実虎には解らなかった。確かに苦手意識はあるが、だからとてわざわざ遠回りをすることでもない。

「はい」

 頷くと、嬉しそうに目を細めた。ほんの刹那の間だけ見せた、そんな鼎の表情が、実虎の胸に引っ掛かる。彼はそんな顔もできる人間だったのか。
 渦巻きそうな思考は一先ず隅に追いやり、実虎は鼎と肩を並べた。圧倒的な身長差により見上げざるを得ない実虎を、鼎が見下ろす。薄暗い闇に陰る冷ややかな色の眼は、その色に反してやはり優しげに見えた。
 前を向き歩きだす鼎に、ならって実虎も足を踏み出す。やけに離れた間隔の街灯はその役目を果たしきれておらず、満月の明かりが二人の足元を最も強く照らした。そこを鼎の小さな鼻歌と、二人分の足音だけが響いた。

「お仕事ですか」

「まぁな」

「司馬さんは?」

「途中で別行動とったからなぁ。もう帰ってんじゃね?」

「戌彦さんも放課後、仕事してるんですよね」

「あぁ。でも今日は顔合わせらんなかったし、ちゃんと留守番してりゃいいんだがな」

 皮肉るように笑う鼎。だが長くは続かず、すぐに静かな笑みに変わった。他愛のない会話を楽しんでいる。その傷跡のない側の横顔に、髪が煌めいたのを実虎は目に留めた。
 街灯の光が及ばない位置を、月の光だけが降り注ぐ。鼎の向こう側にある満月が、色素の薄い彼の髪を光らせた。透けるように輝く髪に、実虎は思わず茫然とする。目を奪われるほどに美しかった。

「……綺麗ですね」

「え?……あぁ、月か。そうだな」

「違いますよ」

 実虎の視線を追った鼎は、月を見上げて同意する。だが自分が見ていたのはそれではないと、緩く首を振った。勘違いに気付くはずもない鼎は、不思議そうに眉尻を下げた。

「でも、月でもいいです」

「ぇえ?どういう意味だよ」

 困惑の顔で見下ろしてくる鼎に、実虎はにこりと笑う。月の光を透かした髪に言ったのだと、告白しても理解はしてくれまい。ならば心の内にしまっておこうと、目を細める。
 ほんの少しだけの眩しさに、心を眩ませた。





嗚呼、月が微笑んでいる






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