さて、寝ようか。そう思い、明かりを消して布団にもぐり込もうとした時、障子を叩く音がした。とんとん。控えめだが確かに自分を呼ぶ音に、田沼は半ば倒しかけていた身を起した。

「……誰だ?」

 時刻は疾うに深夜。時計の針は日付をまたいで尚も進む。父が出向くはずもなく、田沼は少しの警戒心で以て問うた。

「今晩は」

 返事が来た。男の声だ。だが田沼の問いへの返答ではなく、当たり障りない挨拶。障子には声の主のものと思われる影が、月明かりによって映されていた。

「誰なんだ?」

 田沼は再度、問う。警戒心はなくならない。だが夜更けに突然訪れた不審者に対するものにしては、薄すぎるものだった。不思議と穏やかな気持で、障子越しに対面する。

「名前なんて、どうでも良いではないか。障子を開けて御覧。今夜は月が綺麗だ」

 じんわりと心に染み込むような声に誘われ、田沼は布団から抜け出し、障子に手をかけた。すっと開けると、眩しいほどの月明かりが部屋に射し込み、はっとする。秋の風に冷やされて、冴え冴えと光る月。
 周囲を見渡す。だが声の主らしき姿はどこにもない。妖の悪戯にでもあったか、まさかこの身がその声を聴くなど。田沼は溜め息を吐く。実はすでに寝ていて、夢でも見たのか。

「ほうら、綺麗だろう?」

 また声がした。だが慌てて見渡しても、やはり姿はない。一体、何事が起きているのか。
 呆然と月を見上げた。確かに綺麗な月だ。満月ではないものの、それにしても真白な月が美しい。しばしぼんやりと見惚れ、月光を只管浴びた。

「己の生まれた日を祝うなど、人間とはよく解らぬ。だが、それもまた一興」

 声。聞こえた方を見遣ると、草叢に一つの池が薄ぼんやりと映っている。はっとして部屋の天井に目を移すと、月明かりを反射して映る池、そこをゆるりと泳ぐ魚。言葉にならない思いが、あぁ、と口から零れ出た。
 ぱしゃん。池の魚が跳ねた音。ほんの微かにこの目に映る水面が、ゆらりと揺れた。足が汚れるのも厭わず縁側を降り、池に駆け寄る。手を伸べて掬っても、水はこの掌には残らないが、幻想に浸した指の先には確かに。

「おめでとう、人の子」

 その一言に、今日が自身の誕生日だということを思い出す。その途端、池の姿を忽然と姿を消した。広がるのは見慣れた草叢。一瞬の夢。儚い思い。
 彼はその一言を告げるためだけに、姿を現したのだろうか。訊ねようにも、すでにその手段は失われた。後に残るのは、言葉の温もりだけ。掌には何もなく、ただ秋風に草が揺れ、秋の虫が囀った。
 それでも、と田沼は思う。部屋の戻り、ただの天井を見上げてから、草叢を見る。

「……ありがとう」

 微笑んで、障子を閉める。さて、寝ようか。田沼は布団にもぐり込み、今度こそ目を閉じた。






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