近々、煙草が値上がりするらしい。中学ではついぞ聞かない値上げへの愚痴だが、社内ではこそりと呟かれていた。 「はぁ、もう少しで値上げか……まいったな……」 本日何本目かは知れない煙草を喫みながら、瑛秀が溜め息を吐いた。内容は言わずもがなだ。そういえば彼は愛煙家だったな、と実虎は思い出す。 「おーい、クソオヤジ。社内は禁煙になったの、もう忘れたのかぁ?」 そこへやってきた鼎が、さっと瑛秀から煙草を取り上げて告げる。あ、と瑛秀が口を開けて見やる先には、怒りとも笑みともつかない表情を浮かべる鼎。 「すぐそこに実虎がいるのに、よくもまぁ堂々と吸えたもんだな?」 「あー、えーと、ごめんね、実虎くん」 鼎の嫌みったらしい目線と言葉から逃げるように、実虎を見た瑛秀が謝る。話題の矛先が向いたことに驚きつつも、実虎は首を横に振った。 「あ、いえ、気にしないでください。少しくらい大丈夫ですから」 答えると、瑛秀は済まなそうに苦笑し、鼎は納得行かないといわんばかりに顔をしかめた。 「その少しが危ねぇんだ……よ!」 実虎の発言を諫める言葉の合間に、鼎は瑛秀から取り上げた煙草に口をつけた。そして大きく息を吸ったかと思うと、言葉の締め括りとともに煙を顔に吹き掛けられる。 突然のことに対処ができず、もろに吸ってしまった煙にむせた。ほぼ初めての煙草はやはりただの煙に他ならず、美味い不味いも解らない。ただただ身の回りの煙を撒いた。 「やってることと言ってることが矛盾してるぞ……」 瑛秀が呆れたように呟く。言われた鼎はふんと鼻を鳴らし、まだ殆ど真新しい煙草の火を揉み消した。 「ま、ウチも禁煙になったし、ちょうどいいだろ。禁煙しろ」 ぽん、と鼎に肩を叩かれた瑛秀が、がっくりと肩を落とす。テレビでも禁煙の辛さを説かれているが、瑛秀も例に漏れず難しいところまで来ていることは容易に知れた。一日で一箱は潰す彼が、いまさら止められるとは思えない。 どんよりとした顔で唸る瑛秀の心情など露知らず、買い出しに出ていた寧と戌彦が帰宅した。寧の明るい「ただいまー!」の声が、室内にきんと響く。 俄かに賑やかになったところで、戌彦が一つのビニール袋を持って瑛秀に歩み寄る。透けて見える中身に、それまで寧と談笑していた鼎の表情が曇った。 「オヤジ、頼まれたヤツ」 ずい、と差し出される煙草3カートンに、瑛秀が固まった。普段はカートン買いなどしない瑛秀が、一気に3カートンも買ったとなれば、それはもはや値上がる前の買い溜めに他ならない。誰が見ても解るその意図に、話の読めない寧と戌彦は首を傾げたが、事情を知る実虎は心中で瑛秀に手を合わせた。 「……ほーう」 やがて不穏な声を発した鼎に、瑛秀はぎくりと肩を震わせた。瑛秀を見つめる鼎は表情こそ満面の笑みだが、まとう雰囲気は怒気以外の何物でもない。わけも解らずただ恐怖に駆られた寧が、こそこそと実虎の傍に寄ってきた。 「いい度胸じゃねぇか、オラァ!!」 鼎の怒号とともに始まった、大人二人の鬼ごっこ。さすがの戌彦も止めるタイミングを逃したようで、呆然と走り回る二人を見つめた。 「ど、どしたの?二人とも……」 「実はこれこれしかじか……」 つい今し方、瑛秀が鼎に禁煙を迫られたことを説明すると、寧が苦笑を零し戌彦が溜め息を吐く。室内に吹き荒れる煙草値上げの風は、今しばらくは止みそうになかった。 Heavy smokers crisis. |