とくにやることも無く暇を持て余していた知沙は、事務所を出て家に帰ろうかとぼんやりと考えていた。
現在身を置いている犯罪組織の東京卍會で知沙は情報系統や事務を担っていた。そのせいで経理担当の九井に仕事を押し付けられたり手伝わされることも多々あり、今日もそれで事務所に出向いていた。それもこれも九井が今日は不在のせいだ。だがその事務仕事もあらかた終わり、知沙は仕事から解放された。せっかく事務所に来たなら稀咲のところに行きたいが、あいにく稀咲は出掛けているらしく、稀咲がいる部屋に姿は無かった。また仕事だろう。それならいつまでも事務所に残っている意味はない、と帰ることを考えていると、コツン、と靴音が聞こえた。
「……半間」
「稀咲、探してンの?」
振り向くと半間がそこにいて、こちらを見下ろしながら聞いてくる。それに返答せずとも半間は「稀咲なら、黒川イザナと鶴蝶連れて花垣武道の排除に行ってるぜ」とこちらを先読みして教えてくる。知沙はそれに、ふうん、と適当な相槌を打つ。
稀咲と黒川イザナ、東卍のトップの二人が出掛けているのか、と考える。しかし相手が花垣武道であるのなら、それも頷けるだろう。きっと九井もそれで不在なんだろう。いつも一緒に居る乾も居ないらしいし。
「なあに、お前ら飼い主が居なくて寂しがってんの?」
その時、神経を逆撫でる声が聞こえてきた。それに半間と一緒になって視線を向ければ、灰谷蘭と灰谷竜胆がこちらに向かって来ていた。蘭は口元に笑みを浮かべ、竜胆は興味無さそうにこちらに視線を向けてくる。
灰谷竜胆は知らないが、態度からして灰谷蘭は稀咲や半間をあまり気に入っていないのを知っている。そして二人に連れ添ってる私にも良い印象を持っていない。だからこうして突っかかってくることが多々ある。まあ、元横浜天竺のメンバーは私たち三人をあまりよく思っていないだろうが。
「相変わらず良い飼犬やってんなあ、お前ら」
「あいつの何が良いのか、全く分かんねぇけどな」
嘲るように言う蘭と、心底理解が出来ないと言いたげな竜胆。それを知沙は何を言うでも無く沈黙を貫き、二人に視線を向けながらそっと目を細めた。すると、次は半間が軽い調子で口を開く。
「いやいやあ、黒川イザナの下僕の一人に言われてもなにも響きませんねえ」
「あ?」
「へえ……」
竜胆は眉を顰め、半間を睨みつけて低い声を唸らせる。一方で蘭は口元に笑みを浮かべたままでいるが、その眼差しは冷たく、目をそっと細める仕草は背筋が凍る。それでも半間は怯まず挑発するような笑みを浮かべ、知沙も特別何かしらの感情を浮かべることは無かった。しかし、お互いこれでも最高幹部の一人。問題を起こすのは避けなければ。
「やめなよ、半間。揉めると後で稀咲に怒られる」
正直なところここで問題を起こし揉め事になっても半間も知沙はどうでもいい。あえて問題を避けたいという意思も無かった。しかし二人は稀咲の直属の部下に辺り、揉め事を起こせば十中八九稀咲に怒られてしまうだろう。稀咲に余計な仕事を増やしたくない知沙にとってそれは避けたかった。
「ダリィ……そんじゃ、失礼しまーす」
半間も知沙の言葉を聞き素直に引き下がった。半間にとっても稀咲に怒られるのは嫌なのだろう。誠意のない適当な挨拶をして無理やり話を切り上げ、半間は踵を返す。それに知沙も続き、二人はさっさと灰谷兄弟の前から立ち去った。
半間の後に続くように事務所の廊下を歩く。二人の足音がやけに響く中、出口に向かう半間はちらりとこちらを振り返る。
「お前、もう帰ンだろ。どーせ稀咲んとこ行くンだろうし、乗ってくか?」
「もちろん、そのつもり」
「へいへい」
半間は当たり前のように答える知沙を適当にあしらい、ポケットから取り出した車のキーをチャリ、と鳴らした。
* * *
半間に車で送ってもらい、自分の家――と言う名の稀咲の部屋――に帰宅する。部屋に稀咲が居る訳も無く、帰って来た玄関は暗い。知沙は明かりをつけることもせずヒールを脱ぐと靴を揃えて隅の方に寄せる。そのまま暗い廊下を進み、カーテンも閉めてない月明かりが照らす部屋の中でソファに腰を下ろした。
時計に目を向けてみると、事務所で確認した時は二十二時半過ぎだったのに、今は二十三時半前を指している。今夜は帰ってこないかもしれないな、なんて考えながら、知沙はソファに身体を横たえると、そのまま静かに瞼を閉じた。
暗い部屋で目を閉じてからどれくらい経っただろうか。眠るような気分には慣れず、ただじっと瞼を閉じる。部屋に鳴り響く時計の針がやけに耳について、時間の感覚が曖昧になる。
それからさらに経つと、突然玄関が開く音が聞こえてきた。
――帰って来た。
閉じていた瞼を上げ、稀咲が帰ってきた事を察知する。するとすぐにリビングの扉が開かれて、部屋に入ってくる音がする。それに合わせて身体を起こし、ドアノブを掴むその背中に声を掛ける。
「終わったの?」
「……来てたんなら言え」
声を掛けると玄関で靴を見なかったのか、稀咲は僅かに目を見開いてこちらに振り返った。それにふふっと笑うと、稀咲はすぐにきゅっとした顔つきに戻してそんなことを言って来る。知沙が連絡無しに此処に来ることなんていつものことだ。ほぼ住み着いているのと一緒なのだから。
ソファに座り直すと、着ていたスーツを着崩した稀咲が向かいのソファに腰を掛ける。
「花垣武道は殺したの?」
「ああ。邪魔が入って俺が直接殺すことはできなかったが、息の根は止めた」
稀咲ははっきりと殺した≠ニ言い切った。それに知沙は、ふうん、と相槌を打ち、今度は≠ソゃんと殺したんだ、と内心で呟く。
一瞬逸らした視線を再度稀咲へ向ける。稀咲は何か考えているのか、膝に肘を付いて腕を立てている。視線は下を向いていて、交わることはない。それをじっと眺めながら知沙は口を開く。
「満足?」
その言葉に稀咲の鋭い眼差しがこちらに向く。まるで射貫かれているみたいだ、と思う。知沙はその視線にふっと息を吐き、瞼を下ろして居住まいを正した。
「愚問だったわね」
「……ふん」
稀咲は吐き捨てるように鼻を鳴らすと、また視線を下ろしてしまう。視線はまた交わらない。
「橘日向はもういねぇ」
稀咲は続ける。
「花垣武道も、もういねぇ」
その声に抑揚は無く、どこまでも平坦で淡々だ。
「これで、俺の邪魔をする奴は……いない」
稀咲は静かにそう言い切ると、それ以上の詮索を拒んだのかソファから腰を上げた。そのままリビングを出て行こうとするその背中に、知沙は言葉を投げる。
「でも……望んだ結末には至ってない」
その言葉に稀咲はぴたりと足を止める。
計画通りに事は進んだだろう。こうして橘日向も花垣武道もこそこそ嗅ぎまわる協力者も一緒に殺したのだから、稀咲の邪魔をする者は全て消し去った。稀咲の思い通りに、ことは進んだだろう。けれど、実際に望んだ結末には辿り着いていない。
「私は――諦めない」
そう言って、古い懐中時計を握りしめた。
振り返った稀咲がどんな表情をしていたのか、その時には見えなかった。
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