それはついさっきのことだった。涼音先輩にお茶が無くなったから作ってきてくれと頼まれて、補充を終えた帰り道、私は聞いてしまった。先輩たちと榛名くんの会話を。



「なーんか、名字さんってあんま積極的に仕事してるイメージないんすよねえ」
「そーかー?」
「ノックのボール渡しも試合のスコア書いてんのも宮下先輩じゃないすか」




私は夢中で走った。もう、すぐにでも家に帰って布団を被ってしまいたい気分だった。



たしかに、榛名くんの言うように、私はノックのボール渡しも試合のスコアを監督の隣りで書くことも、涼音先輩に比べたら圧倒的に少ない。当たり前だ。涼音先輩は私より上手いんだから。それに、部員さんからの信頼だって私よりあるだろう。でも、私だってそのあいだ何もしていないわけじゃない。ノックで部員さんが取りこぼしたボールを外野の後ろでひたすら集めるのも、試合中のカウントを点けるのも、ラインを引くのも、掃き掃除も、ベンチを雑巾で拭いて綺麗にするのも、10リットルのお茶を作って運ぶのも、戸締まりも、ぜんぶ私がやってるのに!




やだ。やだやだやだ。もうヤダ!部活になんて行きたくない!私のこと何もわかってくれてない!榛名くんはマウンドの上で輝く人だから、私みたいな裏方のことなんてわかってくれないんだ。部員さんと接する仕事ばっかりやってる涼音先輩が“よく働くマネージャー”で、私が“仕事しないマネージャー”なんだ。




「もう、ヤダ!辞める!辞める!辞めるー!!」


テニスコート脇のトイレの裏に隠れて、私は大声を出した。頭の中がごちゃごちゃと散らかって、口に出さずにはいられなかった。ふぅ。やっぱり口に出すと少しは落ち着くなあ。今日テニス部の練習が無かったことに感謝、感謝!さすがに人前で独り言叫べるほど強い人じゃないよ、わたし。



「名字さん?」


「……秋丸くん!?」

秋丸くんは突然、それはもう唐突にトイレの角からひょいと顔を覗かせたのだ。
やばい、やばいぞ…。今の聞かれた!?よね!?誰も居ないと思って結構な声で叫んじゃったし…!


「あああ秋丸くんはどうしてここにっ」
「ん?ああ、ランニングしてたら、名字さんの声が聞こえて」
「(…終わった……)…て、ランニング!?みみみんなは!?」
「みんな?いや、俺一人だよ。俺の個人メニューやってるだけだから」
「…そ、そっか…よかった…」


ふぅ、良かった。秋丸くんに聞かれただけだった。…………ん?全然良くないじゃん!!


「あ、あのー…つかぬことをお伺いしますが、私の言ったこと、全部聞いちゃった…?」
「え、うん。」
「(終わった……)」
「で、何を辞めたいの?」
「う…それ、は……」



私がここで、部員の秋丸くんに私は野球部が辞めたいんですなんて言ったら本当に馬鹿だ。むしろ、言えるくらいの馬鹿なら良かった。こんな中途半端に知能あっても困るだけだわ!


榛名くんの顔が頭の中に浮かんでくる。私のこと、いつもそういう風に思って見てたの?涼音先輩にやらせてばっかだなって思って見てたの?




「……名字さん…?」


だめだ。
そう思うのに、視界は歪んでいくばかり。


「どうしたの?名字さん」

秋丸くんがしゃがんで背中を撫でてくれる。その優しさが、心に染みて、少し苦しかった。


「は、はるにゃぐんがぁ…」
「榛名?榛名になんか酷いこと言われたの?」
「わ、わだっ、わだしが仕事してないって、言っ、た…!の…」
「………」
「…しょ、しょれで、悲しくなって、辞めちゃいたいって思った」


泣きながら喋る私超きめー。と思っていたら、秋丸くんが急に立ち上がった。


「…ど、したの…?」
「俺、榛名のとこ行って来る。それで、名字さんに謝らせるから!」
「えっ!いい!いいよ、そんなの…!」
「良くないよ!榛名はわかってないんだ、名字さんのこと!」
「え…」

それではまるで、秋丸くんは私のことを知っているかのような口振りだ。


「毎日部室の掃き掃除してくれてるのも、破れたボール直してくれるのも、マシンやるのは宮下先輩なのに、文句も言わずにあんなに重い機械を準備してくれてるのも、榛名は知らないからそんなこと言うんだよ!」



私は思わず「マネージャーなんだからそんなの当然だよ」と言ってしまいそうになった。そう、当然なのだ。そのために居るのだから。感謝してほしくてやっているわけではない。自分で好き好んでマネージャーになったのだ。

でも、榛名くんにああ言われて悔しかった。
私居なくなったら、みんな練習できなくて困るよ?自分たちはもう出来上がった舞台の上で輝くだけだから、その舞台を作った雑用係こと私に“仕事してない”ですか。へえ、偉くなったものですね。
そうやって、変な逆恨みをしてしまった。マネージャーは所詮マネージャー。同じ日数、同じ時間だけ部活に出て、同じ様に日に焼けて、同じ様に汗をかいて、同じ様に暑さにへばって。だけどそれでも、厳しい練習を身をもってこなしている部員さんと、私は同じにはなれないのだ。同じ時間を共有し、すぐ隣りであんなにも必死に練習に耐えている部員さんたちを見て、見ることしかできない、あの辛さを本当の意味で共有することができないのが、すごくすごく悔しかった。

それくらい、部員さんのことが大好きだった。





それなのに、私はひねくれてしまった。




「…いい」

私は、秋丸くんの手を取った。


「え?」
「言いに行かなくていいよ、そんなこと」
「そんなことって…でも、名字さんは」
「ごめんね、もういいの。私、ちょっと気が動転してただけだと思うし」
「名字さん…」
「それに、秋丸くんがそんなふうに思っててくれて…ちゃんと見ててくれて…嬉しかった!」


ニッコリと笑いかけたら、秋丸くんの顔がちょっと赤くなった。案外可愛いんだな、秋丸くん。知らなかった。




「ごめんね、ランニングの途中だったのに。もうすぐミーティングの時間だから戻ろう!」

私は秋丸くんの掴んでいた手を離して、トイレの裏から抜け出して、グラウンドの方に歩いた。後ろ向きでゆっくり歩いていると、秋丸くんがこちらに駆けてくる。



「名字さん」
「ん?」

秋丸くんは私の隣りまで来ると、歩調を合わせてくれた。何故か、手を握られる。


「俺、ちゃんと名字さんのこと見てるから!だから、辞めないでね!絶対だよ!」





なんだ。
私のやってきた事、無駄じゃなかったじゃん。
ちゃんと、見てくれてる人がいたじゃん。



私はまた、涙が出そうになった。




ありがとう