俺の目の前をいくつもの花びらがすり抜けていく。太くどっしりとした重厚的な幹とはうって変わり、枝の先にほころぶ淡い花たち。それは日本を代表する花であり、春の訪れに欠かせない花でもある。後ろで、わー!桜だ桜!花びら集めよーぜえ!なんて言っているクソレの声を無視し、俺は少し傾斜のかかった坂を下りた。その先には、大きな幹の隣りに座る名字の背中があった。隣りに腰掛けると、名字は一回だけこちらを見て、それからまた前に向き直った。


「よかったね。最後にみんなとこれて」

名字は、遠くの空を見ながら言った。今俺たちが学校の近くの河川敷にいる理由。それは、六限のHRにある。今日は風がよく吹いていて、桜の散った花びらが俺たちの教室の窓の外にまで流れてきた。

「あ、桜の花びらだ…」
ぽつりと言った名字の言葉に反応したのは水谷だった。

「なーなー!今からみんなで花見に行かね?明日はもう終業式だし、7組の最後の思い出ってことで!」

水谷にしてはいい提案だ。まあ、というわけでHR返上で俺たちはここにいるというわけだ。



「ぎゃはは!いえーい!」

水谷の大きな騒ぎ声が聞こえてきた。集めた花びらをクラスメートにかけて喜んでいる水谷に、俺たちは一度後ろを振り返って、共に憐れな視線を送った。


「水谷くんは、元気だね…」
「ありゃ元気なんてもんじゃねーよ。キチガイだ」

名字はクスクスと笑ってこう言った。

「ねえ、知ってる?桜って、人を狂わせる力があるんだって」

「豆しば…?」
「ぶふっ。そういえば今の言い方似てたかも」
「狂わせる、ねー…」
「うん。桜ってとっても綺麗じゃない?だから、人はその美しさに魅了されて判断力が鈍っちゃうらしいよ」
「だから桜の下には死体が埋まってるっていうのか…」
「うーん、そういうことなのかな?よくわかんない」


しばらく黙って、二人とも、ただ桜を見ていた。俺の足に、桜の花びらが乗った。それは薄い桃色で、こんな半分白みたいなうっすい色が沢山並ぶとあんな綺麗なピンク色になるのか、と妙に少し感動した。花びらを、指でつまんでみる。人を狂わせる花。隣りの名字を見てみる。その桜を見ている横顔は、なんとも、芸術的によかった。これで個展が開けるんじゃないかってほど(絵のことなんてよく知らないけど)、とても綺麗な横顔だった。この、散る時まで綺麗な桜のように。その時気付いた。ああ、名字の唇は、桜の花びらと同じ色だ、って。さっきまでは、今のままで十分だって思ってた。見ていられれば、話せれば、時折隣りに居れれば…。でも、急に俺だけのものにしたくなった。いいや違う。誰かのものにしたくなかった。俺は名字の細い手首を掴み、その桜にも似た唇にキスをした。



「…………。えっ、ちょ、な………阿部、狂った?」


俺は笑って答えた。

「そうかもしんない」









狂わせ桜

(たまには狂ってみるのもいいかなと呟くと、水谷が阿部はいっつもおかしいじゃんと言ったので、不覚にもこいつを桜の木の下に埋めたいと思ってしまった。だが、反省はしない。)