一つ前の席が沖くんになった。

夏休み明け早々の、席替えでのことだ。彼の案外大きな背中を見つめる。なんだか、ドキドキする。あんなに遠くにあった背中が、今はこんなにも近くに。私は野球部の夏の大会を観戦に行った時のことを思い出していた。一塁側のスタンドで応援したため、ファーストの沖くんの背中がよく見えた。どんなに甘いゴロでも、丁寧にアウトにしていく、その屈んだ態勢。ボールを投げる時の腕のしなり、身体の軸の回転、肩甲骨の動き。いつの間にか、私は彼の後ろ姿に引き込まれていた。普段の教室の彼は、そこにはいなかった。


「沖くんって、こんな人だっけ…?」

そう呟いた私に、友人は苦笑した。

きっと友人は失礼な奴だなあ、なんて思ったのだろう。でも本当に、今、この目の前にある背中は、あの時のものと同じなのだろうか。こんな、可愛らしい、慎ましい背中が。背中を丸めてウトウトしたり、背中をピンと伸ばして女の子としゃべったり、カタカタと背中を震わせて西広くんと笑い話をする、そんな彼を、私はずっとすぐ後ろで見ることしかできなかった。あの夏の日のように。
触りたい。彼の背中に触れたい。私の欲が次第に大きくなって溢れてゆく。


やってしまった。
と思った時には遅かった。私の手のひらはたしかに服越しの彼の背中の感触を捉えていた。沖くんが、こちらを振り返る。プリントを回す以外で、初めてかもしれない。

「ゴミ、付いてたから…」

私はわざとらしく彼の服を軽くパッパッと叩いて、即座に嘘をついた。平気で嘘をつく野郎だ。

「あ、ごめん。ありがとう」

沖くんが眉を八の字にして目を細める。あ、可愛い。

そんな沖くんは、何故か顔を前へ戻さない。私からちょっと視線をずらしたまま。なんだろう、まだ何かあるのかな?


「…あの、これ…」

ズボンのポケットからガサガサと探り、飴を三つ取り出した沖くん。

「お礼…」

ゴミを払ってあげたお礼?ごめんね、嘘なの。そう思いながらも、私は彼の手から飴をひとついただいた。ぎっしり果汁、フルーツのど飴。かわいい。


「ありがと」


沖くんは耳をほんのり赤らめて前を向いてしまった。可愛い。どうしようもなく、胸がぎゅううとなって、ぐるぐるぐるっとなる。明日、もし私がこのお礼にとチョコレートをあげたら、彼は律儀な人だから、きっとまた次の日お礼返ししてくれるに違いない。そしたら、今日よりもっとおしゃべりできるかもしれない。そして、私が彼に携帯電話のアドレスを尋ねたら、彼は律儀な人だから、きっと教えてくれるに違いない。そしたら、この気持ちの正体がわかるかもしれない。彼の小さくなった背中がそう言っている。