片付けが終わり、名字さんと肩をならべて学校を出る頃には日も沈み、あの日差しが嘘だったかのように涼しくなっていた。


「私、あんなに間近で野球の試合見たの初めてかもしれない!夏の大会は用事があって行けなかったし」
「でも、一回ボールが名字さんのところに飛んでった時、大丈夫だった?」
「あ、うん!びっくりしたけど、大丈夫だったよ!」
「そっか。よかった」
「それにしても、すごかったなあ。なんかもうみんな動きが速かったよね!ボール取ってから投げるまでとか!水谷くんもあんなに遠くに投げられるなんてすごいなあ。栄口くんも、ボールを取って、くるっと回りながらパスしちゃうし、ツーベースヒット?だっけ?千代に教えてもらったんだ!それもすごかったね!あんな速い球をあんな遠くまで飛ばしちゃうんだもん!」


名字さんのおしゃべりが止まらない。目をらんらんとさせて、頬をはずませながら話す名字さん。未だかつて、俺の前でこんなに話してくれたことってあったっけ?

『あいつが悩むのも、どもるのも、焦るのも、楽しいのも、嬉しいのも、全部栄口のことだからだよ』

昼間の、阿部の言葉が蘇る。
そうなのかな。名字さんをこんなに嬉しそうにさせてるのは、俺なのかな。俺のことでこんなふうに喜んでくれるの?こんなふうに、笑ってくれるの?


「ごっ、ごめん!ちょっとテンション上がっちゃって…。落ち着きます…」

恥ずかしそうに下を向く。耳、赤くなってる。長いまつげにかかる前髪。
名字さんのこと、好きだなあ、好きだなあ、って思って、抱きしめたいなあって思った。これが、愛してるってことなのかな?まだ俺にはよくわかんないけど。


「さ、栄口くん…?」

名字さんの少し戸惑った声。いきなり抱きしめちゃったんだから当然か。男の欲望ってのは怖いな。

「あっ、ごめん」

そう言って名字さんの身体を放した。思ってたよりも、一回りくらい小さかった。秋の木枯らしが身に染みる。

「あの…今から変なこと聞くね」
「え?う、うん」
「名字さんはさ、俺のこと…好き?」
「そ、そりゃもう…!」
「…そ、っか」
「う、うん…」

ちょっと、ストレート過ぎたかな。もっと、ムードのあるかんじで聞けばよかった。

「俺も…好きだよ、名字さんのこと」

名字さんは多分、俺のことをすっごく好いてくれているんだと思う。それはわかってるのに、なぜだか名字さんの気持ちがうまく掴めないんだ。今、どうしてそんな顔をするのかとか、どうしてそんな嬉しそうなのかとか、どうしてそんな悲しそうなのかとか。ちゃんと読みとって、俺に出来る限りのことをしてあげたい。嬉しいなら一緒に笑いたいし、悲しいなら一緒に泣きたい。できることなら、ね。だけど現に俺は名字さんのことなんてこれっぽっちしか理解できていなくて、むしろ周りの方がわかってるみたいで、なんか、なんかさ…。俺が、ちゃんと名字さんのこと好きじゃないからそうなるの?俺の気持ちが、足りないから?だから名字さんのこと、わからないの?



「さ、栄口くん…」

お互い黙ってしまっていた中で、名字さんが発した声は、頼りなく震えていた。同じように震える手で、そっと俺の袖を握った。指、ちっちゃいな。握って温めてあげたい。名字さんが、真っ直ぐと俺を見て言う。

「本当の気持ち、言おう…?私、頼りないかもしれないけど、栄口くんが悩んでるんなら、聞いてあげたいし、力になりたい…」
「名字さん…」

名字さんは、やっぱり俺のことをこんなにも好きでいてくれてる。そう思ったら、恥ずかしさとか嬉しさとか切なさとかがいっしょくたになって顔が熱くなったし、名字さんの真っ直ぐな瞳から逃げるようにもう一度抱きしめた。頼りないようで、彼女は強い。そんな彼女の強さに後押しをされるように、俺は心の底に溜まったしこりをぽろっと取り出した。

「俺、ちょっと、不安だったんだ。俺にはわかんない名字さんのこと、他の奴の方がよく知ってて…」
「…え、それ?栄口くんの悩んでたこと」
「うん…」
「なんだあ。そんなの、私もだよ」
「え?名字さんも?」
「うん。千代とか阿部くんとか、みんなが栄口くんのことを教えてくれるの。その度に、私ってそんなことも知らないんだなあって」
「うん…」
「でも、これから知っていけばいいんだよ。私は、栄口くんのこと、もっと、いっぱい知りたい」
「うん。俺も」

抱きしめているおかげでお互いの顔が見えないからか、素直にスラスラと話すことができた。


「じゃあ、名字さんの好きな食べ物は?」

腕を解いて、冗談っぽく尋ねる。

「うーん、エリンギかなあ」
「エリンギ?きのこの?」
思わず吹き出す。

「ちょっとー、笑わないでよ、ね」
「ごめん、ごめん。なんかイメージ違ったから」
「イメージ?」
「てっきりアイス、とか、オムライス、とか言うと思ってて」
「なにそれー。じゃあ、栄口くんの好きな食べ物は?」
「俺?俺はねー、ケーキ!」
今度は名字さんが笑った。

「えっ、なんで!おいしーじゃん、ケーキ!」
「美味しいけど、まさかケーキと言うとは思ってなくて」
「じゃあ何だと思った?」
「えー、枝豆、とか…」
「枝豆?」
「うん。うちのお父さん枝豆好きだから、男の人はみんな好きなのかなーって」
「あはは!お父さん!」

名字さんがキョトンとするのを横目に、笑い続けた。なんだか、すごく可笑しかった。こんなにも、俺が悩んでたことがどうでもいいちっぽけな問題に思えてくる。どうして伝わらないんだろう、伝わってこないんだろうって思ってた。名字さんはこんなに俺のことを好きでいてくれてて、俺だって名字さんのことがすごく好きなのに、何でだよって思ってた。でも、当たり前のことだった。言葉にしてないんだから、伝わるわけないんだよな。たとえ話しても、上手く相手に気持ちが伝わらないこともある。でも、そうしないと何も始まらない。何でこんな当たり前のこと、忘れてたのかな。



「へんっくしゅ!」

名字さんのくしゃみが静かな住宅街に響く。

「寒いね。早く帰ろっか?」

彼女がたまらなく好きだと思った。こうやって一緒に帰りたいし、手を繋ぎたいし、キスだってしたいし。気持ちが伝わる云々の前に、俺はもっと名字さんと一緒に居て、話して、くっつきたい。名字さんに触れたい。今はただ、色々な名字さんを知って、色々な俺を見せる時だよな。頭の中で煮え切らない不安をこねくり回してるのはもうやめて、名字さんに純粋に惹かれていけばいい。不安になるのは、それからでも遅くない。
名字さんの小さな手を握る。冷たい。ぎゅっと力を込める。温めてあげたい。それが俺にできることだし、してあげたいこと。手が少し震えているのは、寒さのせいにしておこう。



「ずっと、こうしたいなーって、思ってた」

名字さんがぽつりと言った。頬は少し赤くなって、目尻を垂らしながら笑う。ああ、これが“だらしない顔”ってやつ?可愛いっていうか、なんというか、胸が締め付けられる思いだよ。いい意味で。こんなの、阿部は見てきたっていうの?ちょっと嫉妬。

名字さんの方を向いて立ち止まる。赤く染まる頬だけをそのままに、名字さんが俺の方を不思議そうに見る。彼女の唇に、優しく触れる。


「俺も、ずっと、こうしたかったよ」


ポカンとしていると思ったら、真っ赤になった名字さん。俺って、実はすごい幸せ者?だったりする?こんなに、名字さんに愛されてる。名字さんを、大事にしたい。大事に、大事にしたい。
彼女の頬を両手で包み込む。

「まっか」


名字さんの真っ赤なのに冷たくなった頬がほんのりと熱を帯びていく。今、俺が名字さんを温めてる。なんだか嬉しい。幸せだ。ああ、もう一度キスしたいなあ。名字さんが微笑んだので、俺も笑い返した。