午後九時十四分。


その時、私は明日の英語の予習をするために机に向かっていた。すると、横に置いていた携帯がメールが来たことを知らせた。何の気なしに開いてみると、そこには阿部隆也の文字。「うぇ…」と無意識に声が漏れてしまった。今日の委員会の時の様に、また栄口くんのことでからかわれるんだろうか…。正直心臓に悪いのでやめてほしい…。不安になりつつも、あの阿部くんの吊り上がった眉毛やら目やら口やらを思い浮かべたら、メールを開かないわけにはいかなかった。



「……え、何これ…」


『栄口』とだけ書かれ、その下にはメールアドレスのみ。
…え、もしやこれって栄口くんのアドレスってこと?いやいや、もしかしたら全く別の人のアドレスかもしれない。阿部くんは私を試してるんだ。あんなに栄口と話すのは無理って言ってたのに、いざお近付きになれるチャンスが目の前に転がってきたらホイホイされるんだ?おまえゴキブリ以下だね。阿部くんが私にそうテレパシーで送ってきているような気がする。自分のことチキンチキン言ってっけど、ただの肉食じゃん?ってね…。でも違うのよ阿部くん。私は面倒臭いことからは逃げるし、辛いことからも逃げるし、悲しいことからも逃げる卑怯な女なの。決して肉食じゃあないんだ…。庭で羽をばたつかせてあたふた走り回ってる鶏みたいに、今まで色んなことを避けてきたんだよ。それが良い結果をもたらしたこともあったし、裏目に出た時もあったけど。




「…………。……とりあえず無視」



引き続き英語の予習。
言い訳としては、「ごめーん!勉強してたから携帯放置してて気付かなかったんだ」がベスト、かな。






三十分くらい経った頃だろうか。もう一度私の携帯がメールを受信した。また阿部くん?しつこいなあ…としぶしぶメールを開こうとすると、差出人のところが阿部くんの名前ではなく知らないアドレスが表示されていた。誰からだろう…?あ、アド変とかかな?



「……『栄口です。阿部から名字さんがメール送ってもエラーメールが返ってくるって聞いたので、こっちからメールしました。』………。うそ……でしょ?」


とりあえず本文を十回は読み返した。
え?え?まじでこれ栄口くん…!?だって、わざわざこんな面倒臭いこと、私をからかうためだけに阿部くんがするわけないよね…。


私はフリーズ状態だった頭を再起動させて、急いでメールを打った。

阿部くんに。




『阿部くんの電話番号教えて!』





二分も経たない内に返信が来た。栄口くんからのメールに阿部くんが一枚噛んでるのは間違いないな…。
書かれている番号に電話をかける。



『はい』
「もしもし!?ちょっと、阿部くん!これどういうこと!?冗談が過ぎるよ…!」
『あーはいはい。うるさい、うるさい。今変わるから』


え?何が?何を?
聞こえなくなる阿部くんの声。嫌な予感しかしない…。
ていうか、この時間にまだ家にいないの?



『もしもし?あ、栄口です。どーも』
「えっ、あ、あの…はい…えと、こんばんは(阿部くんの馬鹿ああああ)」
『こんばんは!えっと、メール届いた、かな?』
「う、うん!届き、ました」
『そっか!よかった!名字さんが野球好きだったとはねー。ちょっと意外かも。でも、セカンドが好きなんて嬉しいなー。あ、俺セカンドやってるんだ!』
「え?(いつから私は野球好きになったんだ…?)…あ、うん。ちょっと見たことある、よ…」
『あっ、しのーかにノート届けに来たときとか?』
「っ…う、うん。そう、だよ!そのとき!」
『またいつでもメールして!俺にわかることなら教えるから!…あ、じゃあ、阿部に変わるね』



や、ば…い……。
栄口くんと電話しちゃった…。話しちゃった…。あの時のこと覚えてた…。うわ、やばい、やばいよ…。凄過ぎて、頭ぼーっとしてきた…。



『もしもーし。どう?嬉しい?』
「阿部くん…(君って奴は…)。とりあえずありがとうとは言っておく…けど。めちゃくちゃ感謝はしてるけど…!いつから私は野球を好きになったの?野球中継がやってたら必ずと言っていいほどチャンネル変える質の人間なんだけど…」
『今からなれよ。好きなんだろ?……野球』
「………」


今、絶対阿部くん電話の向こうでにやり…ってしたよね?野球って言った時の嫌味っぷりすごかったもん。








ハア…何度思い出しても照れちゃうな。だって、あの栄口くんの声が私の携帯から流れて、会話のキャッチボールをしたんだよ?信じられる?私、やっぱり上手く会話できてなかったけど…。
今日は今までで一番嫌な日だけど、一番良い日だ!





私は喜びに浸りながら、英語の教科書をポイッと投げて、ベッドにダイブしたのだった。










次の日、高熱を出して学校を休むことになることを、私はまだ知らない。





たった今、君の前に
いるなんて。