私は走った。とにかく、私の遅い足で必死に走った。心臓があっちこっちに飛び跳ねながら騒いでいるのを押さえ付けて、私は少ない脳みそで考える。 はて、私は一体何から逃げているのだろう…? 私は、突き当たりの備品室に身を潜めた。地図や地球儀がほこりを被った備品室は、普段から滅多に誰も近付かない。身を隠すにはうってつけだった。そこで私はまた考える。 はて、私は一体何から隠れようとしているのだろう…? 「…名字さん?いる…?」 栄口くんの不安そうな声が聞こえてきた。やはり野球部に私なんかがかけっこで勝てるわけがないのだ。私は体操座りをする腕の力を強めた。ドア一枚向こうには、眉を情けなく下げた栄口くんが困った顔をしているに違いない。そう思ったら、なんだか申し訳なくなって泣きそうになった。 「名字さん…」 「………」 「…名字さん、名字さんは話さなくていいよ。嫌なら、全然話さなくていい。俺が勝手に喋るから、ノーのときは一回、イエスのときは二回、ドアをノックしてよ。ね?」 何にも書かれていないドアに向かって微笑む栄口くんが浮かんだ。私は、いつの間にか二回、ドアをノックしていた。栄口くんが息を飲む音が聞こえた気がした。 「…どう?ちょっとは落ち着いた?」 コン、コン 「そっか。良かった。それなら、出てきてくれないかな…?」 コン、 「……ごめん。名字さんは、俺のこと、嫌い……?」 コン、 「…っ、そ、そっか!なら良かった!うん!そうだったらどうしようかと思ったよ。………あ、じゃあ、ここだけの、ここだけの話、阿部は?阿部のことは好き?」 栄口くんの声が小さくなったと思ったら阿部くんの話。ああ、もう!ほんとなんなの?そんなに私が阿部くんが好きだったら嬉しいの?私は、思いっきりドアを二回叩いてやった。当たった手がとても痛くて、とてもとても痛くて、涙が出た。 『どうして伝わらないの?』 伝えようとしていなかったくせに、何一つ自分から行動なんてしていないくせに、そう栄口くんにイライラして、そんな自分を嫌悪した。 何もしていないのだから、何も返ってくるわけがないのだ。良い結果も、悪い結果も。行動をした者にだけ与えられる対価。今まで逃げ回ってきた私は、きっとスッカラカン。 どうしたら、埋められる? どうしたら、同じ土台に立てる? 「栄口くん……」 「えっ、名字さん、呼んだ?」 「どうしよう、私、明日から栄口くんに会わせる顔がないよ…」 「え…」 「忘れてくれていいよ。全部、ぜんぶ、忘れていいから…」 「………いや、忘れないよ」 「…え?」 「忘れない。全部、ぜんぶ、忘れない。名字さんが俺に会わす顔がないっていうんなら、俺もそれくらいのことをするよ。だから、明日も会おう?」 栄口くんはおかしなことを言った。栄口くんまで会わす顔がないようなことをしたら、お互いが顔を会わせたくなくなるんだから、二人が会わなければ済む話なのに…。 「…俺さ、気付いたんだ。自分の気持ちに。なんでそうなったのか、どうして気付かなかったのか、わかんないんだけどさ。相手が誰を想っていようが、もう気付いてしまったことを知らない振りはできないし…。俺は、俺なりに頑張ろうって思ったんだ。そしたら、野球くらいしか取り柄見つかんなくて。野球やってる時のあいつまじでかっこいいから、敵うかわかんなくて不安だけど…。本当は、もっと、ちゃんと言いたかったんだけど…まあ、でも、気持ちは本物だから…うん、そう、すごく、超本気だから」 栄口が何を言いたいのかサッパリわからない。ただ、栄口くんには野球以外にも素敵なところがいっぱいあるのにって思ったけど言えなかった。行動力の欠片も無いのか、私は。自分にガッカリだ。 「俺、名字さんのことが…好き、です」 耳を疑った。 頭を疑った。 全神経を疑った。 信じられない、言葉。 蚊の鳴くような声での、栄口くんの告白。 これは、夢だろうか…? 「…名字、さん……?」 どうしよう。何か言わなきゃ。逃げちゃ駄目だ。栄口くんだって、勇気を出してくれた。私だけ、逃げたら駄目。やってみればいい。それでどういう結果になっても、私の元へは何かが返ってくる。私の身体の奥に、ズッシリとした、辛く、温かい、優しい重みが、蓄積するに違いない。 『当たって砕けろ!』 きっとバラバラになって壊れてしまった部分には、新しいパーツだったり、誰かの庇う手だったりがあって、人はその後も生きていくんだろうな。 傷付くことを恐れるな、傷付かないことを恐れろ。平穏なんてものには、長居しちゃいけないのだ。 『もうどうにでもなれ!』 これが夢であってもいい。長い間浸かり続けたぬるま湯を飛び出して、私はその白くしわしわにふやけた手で、平穏をこじあけた。 コン、コン |