「えー…無我夢中で駆けてゆくうちに、いつしか途は山林に入り、しかも、知らぬ間に自分は左右の手で地をつかんで走っていた。何か身体じゅうに力がみちみちたような感じで、軽々と岩石を飛び越えていった。えー…気がつくと、手先や肘のあたりに毛を生じているらしい。少し明るくなってから、谷川に臨んで姿を映してみると、既に虎となっていた」



その日の空は、それはもう青かった。現国の教師の眠たくなる朗読を気持ち半分で聞き流しながら、欠伸をひとつ噛み殺す。瞼が次第に下がってきたので、いかんいかんと思いながらケータイにメールが来ていないかチェック。授業中にケータイをいじるのもどうかと思うが、寝ないよりはマシだろう。そう自分に都合の良い解釈をする。ケータイにはメールが一件。どうせメルマガだろうと開くと、なんとあの波江さんからだった。波江さんは滅多なことではメールを寄越さない。ならば、とてつもなくすごいことが波江さんの元に起こったのだろう。


波江さん
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折原臨也が大変なの
来てくれないかしら




驚愕の内容。それは一大事だ!波江さんが私にSOSを出してくれている!それに、大変なことが起きたのは波江さんではなく臨也さんと言うではないか。これは放っておけない。私は授業が終わるとすぐさま保健室に行き、体調が悪い振りをして熱があるんですと申し出た。渡された体温計をこすって体温を上げ、両親は今日旅行に行っているという嘘の情報を流して、なんとか一人で早退することができた。危ない綱渡りだとわかっている。それこそ、家に電話でもされたら間違なく母親が出て嘘はバレてしまうだろう。しかし、そうまでしても臨也さんの元にかけつけたかった。私にとって、臨也さんと波江さんは学校の友達とはまた違うが、紛れもなく大切な人たちなのだ。そのためなら、早退なんてお手の物だ。





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   ○o・..・*・..・o○





「波江さん!臨也さんがどうしたの!」
「あら、随分早いわね」

玄関を開けて臨也さんのデスクに走る。そこには、予想に反して涼しい顔をしている波江さん。あれ?もっと慌ててるのかと思った。なんだか拍子抜けだ。

「…ていうか、臨也さんは?」
「ここ」

大変な目にあっているだろう臨也さんが見当たらなかったので尋ねると、波江さんは私たちの目の前にある、いつも臨也さんが座っている黒いイスを指差した。しかし、明らかにそこに人が座っているようには見えない。無人だ。訝しげに一歩、また一歩と近づくと、そこには黒猫が一匹。私を見てにゃーと一声鳴いた。

「それが、折原臨也。仕事に来てみたらもうこうなってたの。一応こちらの話はわかるみたい。あなたを呼ぶか聞いたらひどく鳴くものだから、あなたにメールしたってわけ。じゃ、後はよろしく。今日は誠二との大事な大事なディナーがあるの」






拍子抜けではなかったようだ。





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   ○o・..・*・..・o○





とりあえず、こちらの話してる事はわかるが、猫語しか話せないということなので、私は鞄からノートを出して、あいうえお表を書き、最後に便利だろうとイエスとノーも付け足しておいた。


「臨也さん、話したいことがあったらこれを指さしてね」

黒猫、もとい臨也さんはにゃーと鳴いて、その小さな腕でイエスを差した。おおう、利口だ。


「臨也さん、なんで自分がにゃんこになっちゃったかわかる?」

ノー

「そっか…」

一体全体どういうことか。人が猫になってしまうなんてことが有り得るのか?そりゃ、池袋じゃ首なしライダーが当たり前のように公園にいたりするけど…!臨也さんは変人だけど紛れもないただの人間だ。新世界の神気取りの時もあるけど、紛れもないただの人間だ。にゃーと鳴く声が聞こえたので臨也さんを見ると、あいうえお表を使って、い、ま、し、つ、れ、い、な、こ、と、か、ん、が、え、て、た、で、し、ょ。観察眼は猫になっても衰えていないようだ。




「今日は私、ここに泊まってもいいですか?ごはんの準備とか、猫の体だと何かと大変だと思うし…」

お、す、き、に

あら、ちょっと素直じゃない。でも、猫の姿でそんなこと言われても可愛いだけですよ臨也さん!


「よく考えたらこんな機会滅多に無いと思うし、ちょっと抱っこしてみてもいいですか?」

ワクワクしながら両手を出したら、にゃーご、と低く鳴いて叩かれた。いつもの臨也さんなら何の問題も無いのだが、彼は今猫だ。臨也さんに叩かれた手の甲には、きれーいに赤い三本線ができていた。猫の爪を甘く見ちゃ駄目だ…。

「ひゃー痛い!血が出てる…!臨也さん、今自分が猫だってこと自覚してください!」

臨也さんだと油断していて傷口から変な病気にかかっては困るので、急いで消毒。丁度良い大きさの絆創膏が無かったため、大袈裟だけど包帯を巻いてみた。あーあ、臨也さん、なんで猫なんかになっちゃったんだろう。悪いことでもしたのかな(…いつもか)。そしたら、臨也さんは魔法使いか何かに喧嘩売っちゃったのかな。そこまで思考が行き着いたところで、今日の現国の授業に思い当たった。授業は真面目に受けていなかったが、それはもう教科書の文章を全て読んでしまっていたからだった。あとは、板書を写せばテストで八十点代は堅い。私は、現国だけが得意教科だから。…て、そんなことはどうでもいい!私は急いで鞄の元に走り、中から現国の教科書を取り出した。すかさず『山月記』のページを開く。


「臨也さん!臨也さん!ちょっと来て!」

黒猫は慣れたように尻尾を揺らしてこちらへと寄ってきた。

「臨也さんは物知りだから山月記については知ってるよね?周りと打ち解けることをしないで、虎にされちゃったイケメンエリートの李徴の話。これは山月記の一部分なんだけど、よく聞いててね。『おれはしだいに世と離れ、人と遠ざかり、憤悶と慙恚とによってますます己の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。人間はだれでも猛獣使いであり、その猛獣にあたるのが、各人の性情だという。おれの場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。これがおれを損ない、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、おれの外形をかくのごとく、内心にふさわしいものに変えてしまったのだ。』……これ、臨也さんのことじゃない?」

目の前の黒猫はくーん?と小さく鳴いた。

「臨也さんの性格が動物に例えると猫で、日頃の悪事が祟って心だけではなく体まで猫になってしまった…と。」


ま、じ、で、い、っ、て、る、?
臨也さんは目を細めて口を開けてシャーと鳴いた。なんか、猫臨也さんに慣れてきたな…。仕草が自然だ。

「現時点で一番有力な説です。……あっ」



私は大事なことを思い出した。臨也さんは、そんな私を不思議そうに首を傾げて見ている。臨也さんは、山月記の内容を覚えていないのだろうか。まあ、普通の人なら当然かもしれないけど。




「……これ、最後まで主人公の李徴は虎から人間に戻りません…」



ということは臨也さんも…?
私と臨也さんは一緒になってソファに沈み込んだ。









どうしてこうなった



(臨也さん、一生猫のままなの!?)
(ぶにゃー)