人を初めて殺した時、君は筋がいいね、と褒められた。褒められることを渇望していた僕だったけどさすがに人殺しというクズの中のクズ行為をした後に、ましてやその行為への賛辞をもらったともなれば素直にその言葉を受け取れなくもなる。だから僕は結局宙ぶらりんになったそれを中途半端に飲み込んでありがとうございます、とだけ言って返り血すらも浴びなかった白い手を何度か振った。そんな僕に、あの人は何も言わない。そういう人だった。路頭に迷う僕を拾ってこんな風に仕立て上げた張本人。恨む気もないが、礼を言う気にもなれない。あの時のたれ死んていれば、今僕に撃たれた人は死ななかったろうにとも思ったけれど、結局僕でない誰かに殺されるのだからあんまり意味はないような気がした。こういう現象のこと、なんていうんだっけ。どうあがいてもその未来は変えられない、みたいなやつ。思い出せないし、そこまで気になることでもなかったから調べようとも思わなかった。貰い受けたスマートフォンで調べれば三十秒もかからないはずなのに。そんなことにすら労力を使わない自分はやっぱりクズだと思った。


 誰が悪いとか、何が悪いとかそういう話ではないのだと思う。チョロ松兄さんが家を出たのは必然であったし、当然であった。だからそのあとなし崩し的に皆家を出たのは当たり前で、その当たり前を享受できなかったおそ松兄さんも普通だった。だから、誰も悪くない。あのままニートを今後数年続けていたとしてもきっと誰かしらが口火を切ってあの箱庭は破壊されたのだろうし、それこそどうあってもこういう未来は免れなかったということだろう。
 手際よく処理される死体にこびりついた赤を見て、僕はおそ松兄さんをぼんやりと思い出していた。当たり前を当たり前と受け流せなかったかわいそうな人。かわいそうでかわいい人。どっちにも愛という漢字が入っているのだから大して意味は変わらない。煙草に火をつける。僕がこういう仕事をし始めるようになってからも変わらずそこらへんのコンビニで買えるような銘柄を吸ってるのを見て、周りの人は違うのを吸ったらと勧めてきた。締まりがないということだろうか。でもどうやらそれはいきなりイッパンジンからウラシャカイノジュウニンとなった僕を気遣ってのことだったらしく、渡されたものはマリファナだったようだ。吸わないで捨てた。
 ただその煙草によく似た形状の麻薬を見て、ああそうか、普通の人はこうやって突然いつ自分が死ぬかわからない状況に落とされたら精神がおかしくなるのだろうと思った。だから周りの人は僕にその筒を渡したのだ。いつだったか僕はトド松にノーマル人間と言われた。その時は腹が立った。つまり、僕も僕自身をノーマルで普遍的でなんの特徴もない人間だと分かっていたということだ。でもどうだろう、蓋を開けてみれば、僕は人一人を殺したというのに平然としている。買い与えられた虎の喉を鳴らせて至福の時を過ごしている。
 それはひとえに、僕を拾ったあの人が次男に似ているということもあった。似ている、なんてもんじゃない。初めて見た時は本当にあのクソ次男だと思ったのだ。だから僕は路地裏で猫と戯れる僕に話しかけるあの人になんなんだこいつはと思ったのだ。猫が好きなのか、だとか、猫の言葉が分かるのか、とか、他の動物の言葉は分かるのかだとか。全て六つ子である僕たちにとっては当たり前すぎる事柄で、全てにイエスと答えたあと何を今更と詰め寄ろうとしてその顔を見た時、ゾッとしたのだ。僕はその時その瞬間まで、少し後ろで僕の様子を見ているのは次男だと思っていた。だって声まで一緒だったのだ。別人だなんて、思うはずもない。顔を見て一瞬で違うと分かったのは、その目のせいだった。光に透けた海を思わせるような、透き通ったブルー。そして、その青が宿す光に、ゾッとした。逃げなくてはと思った。僕のそのおののきが伝わったのだろう、一緒にいた猫たちはあの人に向かって毛を逆立たせ、威嚇するように鳴いた。それに、あの人はまた面白そうに笑うのだ。お前にとって、猫は奴隷なのかと。ふざけんな、親友だ。そう言いたいのに喉が引きつって声が出せない。一目で分かった。この人はカタギの人じゃない。高校の時、僕たちはヤンチャだった。主に上三人がヤンチャだった。その弊害で一度、たった一度だけヤクザらしき人と出会ったのだ。それは結局誤解だったから僕たちは何の危害も加えられず無事家に帰ることができたのだけれど、あの時とおんなじだ。人を殺してきたのだと、人を傷つけてきたのだと簡単にわからせるその瞳。逃げるには十分すぎる条件だった。
 だから僕は、友達である猫たちには申し訳ないけど、皆にあの人を襲うよう指示して、逃亡を図った。やばいやばいと、逃げろと本能がけたたましいほどに警笛を鳴らしていた。逃げきれなかったのは逃げようとした先に待ち伏せていたかのように黒い高そうな車が止まっていたからだ。コツコツと後ろから足音がする。親友の悲鳴も聞こえた。それでも僕は動けなかった。

「お前は本当に面白いな」

 くつくつと笑う声がする。がしゃん、と金属が擦れる音がした。刑事ドラマでしか見たことがなくて、しかししっかりとしたリアリティを持って伝えられるその音に目眩がした。
「お前、行くあてがないんだろう」
 最近ずっとここら辺にいるよな、と断定の意味を込めて言われて、ゾッとした。ずっと、僕を見ていたのか。どうして、なぜ。そんな疑問がぐるぐると頭の中を駆けずり回る。

 コツン、とすぐうしろで足音がやんだ。そしてゆっくりと、僕の首に指が這わせられる。僕の知ってる指よりもずっとごつくて、傷だらけだった。
 そして何より、あの次男から溢れんばかりに伝えられるあたたかさが、この男からは一切感じられなかった。ひやりとしたナイフのような指が、僕の喉を猫にするように撫でる。

「よかったら、うちで働いてみないか?」

 そんな、アルバイトよりも気軽な、それでいて命を落としかねないほどの重みを持って、その言葉は僕を捕らえたのだった。それからは、トントン拍子でこの人に連れて行かれ、色々なことを教えられ、僕は吸収していった。その最終段階と思われる行為も、先ほど終わった。その証拠に、あの人は機嫌よさげに鼻歌を歌っている。

「お前を拾って本当によかった」

 これは何度も繰り返された言葉だった。周りの人は僕をこの人の生き別れの弟だと思っている。ちゃんと明るいところで見てからわかったことだが、この人は僕よりも一回りほど年上だった。生き別れた弟がとうとう見つかったのだと嬉しそうにこの人は嘘八百を並べ立てた。僕も大して気にせず適当に話を合わせた。
 何かをやるごとに、やはりあのお方の弟、だとか、とてもつい数年前まで普通に暮らしていたとは思えない、だとかいったことを口々に言われた。普通と言っても、六つ子だという上にニートのクズをやっていたのだ。それを普通と言っていいか定かではないが、少なくも数年前までの自分は、親友たちを情報収集なんかのためには使わなかっただろう。ネコ科の動物と親しくなれることも、この人にとっては僕をスカウトする要因の一つになっていたようだ。猫を使った情報収集ができると分かってから、その褒美にと虎を買い与えられた。その虎を使っての尋問の仕方も教えられた。僕に使役される彼らは文句の一つも言わない。逃げていいんだよ、といえば、ひと鳴きされてから指を舐められた。

 初めて人を殺したとしても時間は平等に人々に襲い来る。昇った朝日に欠伸をする。虎と一緒に寝る生活は最高だった。寝る間際と朝起きてから数分、僕は兄弟たちのことを考える。結局何も言わず見送りもせずにあの家に一人残ったおそ松兄さんは大丈夫だろうか。チョロ松兄さんはちゃんと仕事をして、ちゃんとおそ松兄さんをフォローできているだろうか。十四松は周りの人を困らせたり、怪我なんかをしていないだろうか。トド松は一人で寂しい思いや、トイレに行けず悩む夜を送っていないだろうか。
 そして、あの人によく似たカラ松は、ちゃんと、駄目にならずにすんだのだろうか、と。
 そんなことを考えながら僕は煙草をふかす。あの人は何も言わない。ただ温かいカフェオレを持ってきて、その日のスケジュールを告げる。僕はもう数年ほどしたらこの人の助手として働かなくてはいけないらしい。そのために日々精進の連続だ。ただ前述した通り、どうやら僕はノーマル人間ではなかったらしく、さくさくと教えられたことを覚えることができた。数年後僕にその立場を譲るだろう人は、君が覚えが早くて助かる、と何度も言っていた。婚約者がいるらしい。その人のためにこの世界から足を洗うのだと言っていた。幸い大きな怪我をしていることも刺青を入れているわけでもないから、案外あっさりあっちの世界に戻れるのだろう。羨ましいような、羨ましくないような、そんな中途半端な気持ちが紫煙とともに空気に溶けていく。

 戻りたいのか、と言われたら、僕はきっと戻りたいと即答できる。あのぬるま湯に浸かるような、素晴らしく完成された箱庭に、僕は戻りたい。帰りたい。
 でもそれは不可能なのだ。一度溢れたぬるま湯はいくら手ですくおうとしても指の隙間からこぼれ落ちてしまう。
 だから、もう、あの空間に戻ることは、無理なのだ。たとえもし家を出てったみんなが何らかの理由で戻ってきたとしても、昔のような関係には戻れない。

 だって僕はもう立派な、ヒトゴロシなのだ。

「今日は墨をいれようか」

 何でもないように、あの人はいった。にこやかな笑みを浮かべ、僕の背中をシャツごしになぞりながら、虎を掘ろう、と彼は言った。「青い瞳を持った、美しく大きな虎を」名案だと思った。それでも僕は、彼に生まれて初めてのお願いをした。

「虎の目を五つにしてください」

 その言葉に彼は一瞬だけ驚いたように瞬いたが、すぐにいつもの顔に戻すと「ああ、構わない。お前の好きにすればいいさ」と笑った。
 そうして僕は一ヶ月かけて背中に大きな虎を掘った。なんでも普通はもっと時間がかかるらしいが、よほど彫師の腕が高かったのと、僕の傷の治りが早かったからだろう。ずっと早く刺青を入れることができた。
 姿見の前に立つ。仕立てのいいズボンを履いた貧相な男が立っていた。僕だった。ゆっくりと回って背中と鏡を向かい合わせにして振り向けば、ばちりと鏡の世界の虎と目があった。

 それぞれ色の異なる五つの目を持った大きな虎。それが僕を、悠然と見つめていた。

 はは、と喉がなる。
 これで僕は、この背中さえあれば、あいつらのことを忘れずにいられる。六つ子の松野一松であったことを、覚えていられる。
 少し離れたところで一部始終を見ていたあの人が、行くぞ、と僕に声をかける。素早くシャツを着てジャケットを羽織い、あの人の元へ行く。

「さあ、行こうかイチ」

 はい、と答えれば満足そうな横顔。悪い気はしない。
 閉まる扉の向こうで、五つの目を持った虎がおん、と吠えた気がした。



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