おそ松兄さんの童貞を奪ったのは、単純に嫌がらせだったのだと思う。セックスするたびに実の弟に犯されたことを思い出してインポになってしまえという気持ちがあったことは確かだった。目隠しをして猿ぐつわをされていたおそ松兄さんがどんな表情で、どんな視線で、どんな声で僕に犯されていたのかは神のみぞ知るところだ。神だってそんなことは知りたくなかったろうなあと少し同情する。まあ神様なんてものがいたとしたら、六つ子という摩訶不思議な存在の一員として僕を産み落とし、なおかつ同じ卵からなった兄弟に性欲を抱かせるような存在に仕上げたのだからとんだポンコツなのだろう。だとしたら自分の生み出した存在の始終をしるのは義務だともいえた。だから僕がおそ松兄さんを犯したのも、その次の日の朝には姿を消した僕を知っているのも、神様として当たり前のことなのだろう。くしゅん。寒いわけでもないのに出たくしゃみにうんざりしながら、キシキシと今にも壊れてしまいそうな音を立てる階段に足をかける。僕がおそ松兄さんの童貞を奪い取ってすぐに家を出ることが叶ったのは、ひとえにミスターフラッグのおかげだった。そしてハタ坊に紹介してもらった仕事をこうして何年も続けられているのだから、チョロ松兄さんもハタ坊に頼みこめばきっとすぐに脱ニートできるだろうに、それをしないあたりやっぱりあの人は「仕事を探している真面目で真っ当な自分」が好きなのだろうなあと思うのだった。本人にそんなことを言った日には死ぬよりも酷い目にあわされそうだけれど。ちなみにフラッグコーポレーション直属の会社ではなかったために僕の尻は無事に今もその正しい用途を続けることが叶っている。よかったね僕のケツ穴よ。
 ポケットから部屋の鍵を取り出し解錠する。ハタ坊が紹介してくれた中で一番古びて住人が僕しかいない物件を選んだのは、単純に僕みたいなクズがそんな贅沢をしたらバチが当たると思ったからだった。クズはクズかごへ。それを全うしたまでである。だいたい成人男性が一人居座るだけなのだから、そういくつも部屋があっても邪魔になるだけだ。
 僕が家を出ることを前もって知っていたのはハタ坊と母さんだけだった。父さんには面倒くさくて言わなかった。口軽そうだし。
 母さんは僕の独り立ちを神妙な顔つきで受け止め、「あんたが決めたことなら、母さんは口出ししないわ」と言って僕の背中を押してくれた。まさかそんな生真面目なことを言われている男が数日後に長男を襲うだなんて微塵も思っていない顔で(願望でもある。母さんは色々と敏いところがあって時々怖い)いつでも帰って来ていいと言ってくれた。僕は深々と頭を下げてその言葉を受け入れた。きっと僕は二度と、この温かくて居心地のいい、楽園のような我が家には戻ってくることができないのだろうなと思いながら、心中で母さんに何度も謝った。ごめんね母さん。ごめんね父さん。ごめんねおそ松兄さん。僕はこんなつもりはなかったんです。こんな、兄に情欲を抱くだけに飽き足らず兄の貞操を奪おうだなんて思う手筈じゃなかったんです。
 最初は傍にいられればよかった。その欲望を満たすのは簡単だった。だって僕たちは世にも珍しい一卵性の六つ子。そして小中高と同じ学校に通い、同じ家に帰り、そして誰も進学も就職もせずに親の脛を齧るクソニート。何もしなくたって傍にいられる。同じ布団で眠れる。そう、その欲望を満たすのは簡単すぎたのだ。だってただいるだけで、ただそこで息をするだけでその欲望はたぷたぷと波を立てるまでに満たされるのだから。それがまずかった。欲望が満たされれば新たな欲望が噴き出てくるのが人間というものであって、そして僕もそれにはずれずそんな貪欲で醜悪でどうしようもない生き物だった。同性でおなじ顔をしたおんなじ遺伝子を持った人物に恋をするというだけで何重もの罪を重ねているというのに、僕はそこに更に罪を上乗せさせた。僕はおそ松兄さんが好きだった。おそ松兄さんを愛していた。恋をした人間が行きつく欲望なんて、恋相手とセックスをしたいという世にもおぞましいものに相場決まっている。僕はおそ松兄さんに抱かれたかった。おそ松兄さんと体温を分かち合いたかった。ただそれだけだった。本当に、ただそれだけだった。でもそんなことをすれば僕は絶対におそ松兄さんに嫌われる。誰よりも兄弟という囲いを大事にするおそ松兄さんに追放を言い渡される。それでもよかった。だってもう傍にいるだけで辛いんだ。おかしいよね、昔は傍にいられるだけで、兄弟ができるだけで満足だったのに。それだけでよかったのに。それがいつしか苦痛に変わった。どう足掻いても兄弟としてしか見られないことが苦痛で苦痛で、不幸で不幸で悲しかった。僕はおそ松兄さんの特別になれない。それが辛かった。苦しかった。悲しかった。だから僕はおそ松兄さんをレイプした。不意を襲って縛りつけて目隠しをして猿ぐつわをしておそ松兄さんの童貞を奪った。暑い暑い熱帯夜だったから、ぽたぽたと僕の汗がおそ松兄さんに降り注いでいたのを今でも覚えている。
 おそ松兄さんが好きだった。最初は純粋に好きだった。キラキラとした感情で好きだった。でもそれは昔の話。遠い遠い、昔の話。その感情はすでにどす黒く腐り落ちていて、触れただけでもねっとりとしたヘドロを爪と指の間に滑り込ませるような、そんな醜悪なものになってしまっていた。それを持ち合わせている僕が地獄に落ちたって赦されないことを引き起こすまでに、腐敗してしまっていた。
 おそ松兄さんが僕の胎の中で射精して、その子種の熱にうっとりしながら、おそ松兄さんの性器を自分の胎から引き抜いた。そして身体をタオルで清めてやって、服を整えて、目隠しも猿ぐつわも拘束もそのままに、おそ松兄さんの額にキスをした。熱帯夜で行ったセックスのせいで、おそ松兄さんの皮膚は汗で濡れて少ししょっぱかった。
「ごめんね」
 僕はそう言って、おそ松兄さんから逃げ出した。この恋から逃げ出した。そうして今、僕はこうして社会の歯車として日々を過ごしている。ハタ坊にも母さんにもきつく口封じをしてあるから、兄弟の内の誰か一人にでも見つけ出されることはきっとないのだろう。僕しか住人のいないおんぼろアパートでコンビニ弁当をつつく僕を見つける人間など存在しない。ネクタイとスーツのジャケットをベッドに放り投げて煙草に火を付ける。
 僕に煙草を教えたのはおそ松兄さんだった。な、一松、お前も吸ってみろよ。そんなコンビニに誘うよりも軽い調子で、僕は未成年喫煙の誘いに乗ったのだった。初めて吸った銘柄はおそ松兄さんの赤マルだった。でも今僕が吸っているのはおそ松兄さんの色を持った煙草ではなく、外国物の、何が何だかよく分からない煙草だった。僕がその銘柄に手を出した時、おそ松兄さんは意外そうにその両目を瞬かせたあと、お前っぽいわと言って笑っていた。
 おそ松兄さんの色は赤だった。赤マルと同じ赤。ヒーローの赤。赤から連想されるものはなんだろう。炎、血、恋、嫉妬。そんなところだろうか。トド松に訊いたらもっと可愛らしい解答が返ってくるのかもしれない。でも今も昔も、僕が赤から連想できるものはそんなおどろおどろしいものでしかなかった。
 おそ松兄さんを見るたび、僕は嫉妬の炎で血液が沸騰する思いだった。傍にいられるだけでいいと言っていた僕はいったいどこに行ってしまったのだろう。あの純粋でキラキラとした感情を持っていた僕はどこにいってしまったのだろう。もしかしたら最初からいなかったのかもしれない。僕はおんなじ卵からなったおんなじ顔をしたおんなじ性を持った兄に恋をした、ただのド変態野郎でしかないのかもしれない。かもしれない、なんてもんじゃない。実際そうなのだからぐうの音も出ない。
 おそ松兄さんを好きになって、そしてその感情が黒く染まるまでの過程で、僕は何度も、なんでおそ松兄さんじゃなきゃ駄目だったのだろうと思った。だってみんなおんなじ顔なのだ、誰を好きになったっておんなじだったはずだ。なのに僕はおそ松兄さんを好きになった。おそ松兄さんの精液を欲しがった。自分で言っていて気持ち悪い。でもしょうがいない、それが僕なんだから。松野一松なんだから。
 僕がいなくなったあの家はいったいどうなっているのだろう。みんな未だにニートを満喫して、僕の存在なんて忘れ去られてしまっているのだろうか。それは少しさみしい。そんな感情、湧かせるだけ自分勝手であることは理解しているけれど、しかしでも、悲しい。寂しい。どうしようもない人間だ、僕は。

「おそ松兄さん」

 呼んでみる。勿論返す声はない。あったらホラーだ。でもそれでいい。だって僕はもう、おそ松兄さんに声をかけてもらうことも、笑いかけてもらうことも、頭を撫でてもらうこともないのだから。そんな資格、僕にはもうないのだ。自分から捨てて、自分から壊した。そっと自分の腹に手を当てる。数年前のおそ松兄さんの精液はもうすっかり僕の身体に吸収されて、僕の細胞の一部となって鎮座している。それだけで十分だ。それだけで満足だ。その事実だけで、僕は生きていける。兄弟の枠から逃げ出した僕は、生きていける。それだけで、十分じゃないか。
「おそ松兄さん」
 ああ神様、なんで僕を普通にさせてくれなかったのですか。普通の人間は肉親に欲情なんてしない。兄弟に恋慕なんて寄せない。おんなじ顔をした人間を強姦なんてしない。
「おそ松兄さん」
 好きだった。今でも好きです。でも僕はもういいんです。大丈夫です。貴方の精液をもらえただけで幸せ。幸せ、な、はず、なのに。
「にい、さん」
 なのにどうして、僕は今泣いているのだろう。ぐずぐずと鼻を鳴らして、両目からだくだくと涙を流して、肩を震わせて泣いているのだろう。後悔なんてないはずなのに。今の状況に、環境に、結末に満足しているはずなのに。
「おそ松兄さん、」
 僕を助けてよおそ松兄さん。赤はヒーローの色なんでしょ。主人公の色なんでしょ。だったら僕を助けて、助けてよ。もう苦しいんだ。辛いんだ。悲しいんだ。
「にいさん、」
 がちゃり、と背後で扉の開く音がした。



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