一松兄さんが死んだ。車に轢かれそうになった猫を庇っての不幸な事故ってことになっているけれど、それが真っ赤な嘘であることを僕は知っていた。何故かって? 答えは簡単、それが仕組まれた事故であったことを、一松兄さん自身から聞いたからに他ならない。
 一松兄さんは自分の葬儀中、ずっと会場の外で猫と戯れていた。一松兄さんが見えないみんなは、一松兄さんのお別れのために猫が集まったと思い込んで涙を流していた。みんな呆然としたり、泣き叫んだり、怒ったりしていたけれど、僕はそのどれにも当てはまらなかった。みんなはそんな僕を見て、十四松は一松と一番仲がよかったからまだ現実を受け入れられないんだろう、なんて解釈していた。勘違いもいいところだ。だって一松兄さんはそこにいるんだもの、悲しみようがないよ。
 悲痛な空気を孕んだ会場から抜け出し、猫と戯れている一松兄さんに声をかけると、一松兄さんは大層驚いたようだった。恐る恐るといったように、俺が見えるの、と僕に確認していた。僕はそれに笑顔で頷き、半分透けている一松兄さんの隣にしゃがみ込んだ。お前はもともと人間離れしていたけれど、まさかここまでだったとはね。そう言って一松兄さんは笑った。足元の猫がにゃあと鳴いた。
 一松兄さんが死んでから丸々一ヶ月はみんな悲痛な面持ちをしていた。納骨が済んでもみんな一様に一松兄さんの席や寝る場所をとっておくから、幽霊になった一松兄さんはそこに座って悲痛な顔を引っ提げるみんなを見て申し訳なさそうにしていた。でもそこに後悔の色はない。だってこれは一松兄さんが望んだことだから。一松兄さんが猫に頼み込んだ末の、事故に見せかけたれっきとした自殺だから。
 幽霊である一松兄さんよりよっぽど死にそうな顔色をしていたのはカラ松兄さんだった。逞しかった身体はみるみる衰え、薄っぺらくなっていった。髪も女の子を意識してキッチリしていたのにボサボサになってしまって、まるで一松兄さんになってしまったかのようだ。そう告げると、一松兄さんは少し思案した後、苦笑とも冷笑ともとれない顔で小さく笑った。
 四十九日が済んでも一松兄さんは一向に成仏する気配を見せなかった。成仏しないのかと問うたら、仕方が分からないと首を振られた。ふうん、そういうものなのか。でも僕としては成仏してしまったら一松兄さんとは会えなくなってしまうから、それは好都合だった。もうバッドにくくりつけることも一緒にご飯を食べることもできないけれど、一松兄さんがそこにいるだけで僕は幸せだった。一松兄さんが死んでも以前と全く変わらずに日常を回す僕にみんな気をつかったけれど、僕なんかよりカラ松兄さんに気を回しなよ、と言えば、みんな気まずそうにしていた。今のカラ松兄さんは一松兄さんそのものに見えた。当たり前だ、もともと僕らは一卵性の六つ子。おんなじ容姿。だからいくらか手を加えれば、誰かが誰かに成り代わることなど容易なことなのだ。もっとも今回の場合、カラ松兄さんは無意識に一松兄さんに近づこうとしているのだろうけれど。そしてみんな、日に日に一松兄さんに似てくるカラ松兄さんを持て余している。隣の一松兄さんの顔を覗いてみるも、自分の生き写しとなったカラ松兄さんを無表情に眺めているだけだった。
「一松兄さんはあれでいいの?」
「別に。俺には関係ない」
 一松兄さんはそれだけ言って猫と戯れるのを再開させた。関係ないわけないのに、そう言って僕の質問から逃げた。僕もそれ以上追求しようとは思わなかったから、同じように猫と遊んだ。一松兄さんを見ることができないみんなは、僕までカラ松兄さんのように一松兄さんに似てくるんじゃないかとヒヤヒヤしていたらしい。もっとも僕はそのことをトド松が僕の腕を引き止めるまで気付けなかった。いつものように一松兄さんと河原に行こうとした時、トド松が僕の腕を掴んでこう言った。
「十四松兄さんは、大丈夫だよね」
 何が大丈夫だというのだろう。首を傾げる。隣の一松兄さんは、やっぱり無表情でトド松を見つめていた。

「一松兄さんに、ならないよね」

 僕はおもわず一松兄さんと顔を見合わせてしまった。一松兄さんは眉をひそめて、居間の角で体育座りをしているであろうカラ松兄さんを思ってため息を吐いた。
「大丈夫だよトド松」
 トド松には聞こえないのに そう言って一松兄さんはトド松の肩を軽く叩いた。
「十四松はカラ松じゃないよ」
 それだけ言い残して出て行ってしまった一松兄さんを追って玄関から出ようと踵を返すと、トド松が真剣な声音でこう言った。
「十四松兄さんは一松兄さんがなんで死んだか知ってるの」
 知ってるよ。でもそれは一松兄さんとの秘密だから。一人っきりの可愛い可愛い弟にも言えないことなんだ。眉を下げてから、おやと思った。どうしてトド松は一松兄さんの事故が故意なものだと知っているのだろう。不思議そうにトド松の顔を見ると、トド松は少し逡巡するように視線を下げてから、「やっぱり、あのせいなの」と言ってきた。僕はやっぱり眉を下げて「ごめんね」と言って家から飛び出した。トド松はどうやら一松兄さんがなんで死のうと思ったか勘付いているらしい。さすが末っ子、人心掌握の達人。叶わないなあ。
 河原につくと、先に来ていた一松兄さんが顔を上げた。地べたに座り込んでいるその隣にしゃがみ込み、一松兄さんを呼んだ。ねえ、一松兄さん。
「カラ松兄さんのこと、もう許してあげてよ」
 一松兄さんのびいだまみたいな目がジイッと僕を見た。僕はそれから目をそらさずに、もう一度言った。許してあげてよ、一松兄さん。
「許すも何も」
 目を先にそらしたのは一松兄さんだった。まあるい眼球をゴロリと転がし、視線を水面に移す。「僕は別に、あいつを恨んじゃいないよ」あいつが勝手に責任を感じているだけだ。一松兄さんはそう吐き捨てた。でも、それはあんまりじゃないのかなあ。眉を下げる。だって誰だって責任を抱かざるを得ない状況だと思う。告白してきた相手が、振った次の日に死んでしまうなんて。
 一松兄さんはカラ松兄さんが好きだった。それは家族愛だとか兄弟愛だとかじゃ収まらない、ドロドロギラギラした、情愛のそれだった。一松兄さんは長い間、それこそ十年近くその想いを抱いてきた。そして車に轢かれる前日にカラ松兄さんに告白し、自殺した。これでカラ松兄さんが何にも抱かなかったらそれこそサイコパスだ。
「俺はね、終わりにしたかったの」
 一松兄さんはそう言い言い、手元の石を手に取ろうとして、掌がスカッと空振りすることにぼんやりと項垂れた。
「だってこんな恋、つらいだけじゃないか。だから終わりにしたかった。捨てようと何度も思った。別の奴を好きになろうと努力した。でも俺が好きなのはあいつだけだったんだよ」
 だから一松兄さんは死んだ。砕けた恋心を抱きながらトラックの前に躍り出た。
 一松兄さんは「気持ち悪いでしょ」と自嘲的に笑った。僕はその顔をどうにかこうにかしてやめさせたくてその身体を抱こうとしたのだけれど、僕の腕は一松兄さんの胸を貫いてふわふわと宙に浮くだけだった。悲しい。僕は一松兄さんが死んで初めて、一松兄さんの死を悲しんだ。だくだくと涙を流して、一松兄さんがいる空間を抱きしめる。
「大丈夫だよ」
 一松兄さんはそう言って僕の頭を撫でた。その手は弾力さえ伝えなかったけれど、ひんやりとした冷たさだけはシッカリと僕に叩きつけた。冷たい。死の温度。ああ、そうか、一松兄さんは本当に死んじゃったんだ。そうだよ、だって葬式に出たじゃないか。骨を箸で拾ったじゃないか。納骨に参加したじゃないか。なのに僕の隣にはいつだって半分透けた一松兄さんがいたから、どうにもこうにもその実感が湧かなかった。でも今、僕は一松兄さんの死をまざまざと感じ取っていた。
「ごめんね」
 一松兄さんはずっとずっと、日が暮れるまで僕の頭を撫で続けた。その手はやっぱりヒインヤリと冷たくて、僕はその温度にますます咽び泣くしかなかった。


 次の日の朝目を覚ますと、いつも僕より先に起きて部屋の隅にいる一松兄さんがいなかった。居間にでも行っているんだろうか。そう思って階段を下りると、バッタリカラ松兄さんと行き合った。目を見開く。だって僕と鉢合わせたカラ松兄さんは髪がボサボサでも、猫背でもなかった。背筋をピンと伸ばして、シッカリ髪を整えた、どの角度から見ても松野カラ松でしかない存在に出来上がっていた。
「一松に会ったんだ」
 カラ松兄さんはそう言って、兎のように真っ赤になった目で僕を見た。そこで僕は理解した。そうか。そうなのか。じんわりと目の前が霞んでくる。
「いつまでそうやってるつもりだって。俺は事故で死んだだけだから、お前には何の責任もないって」
 だから気持ち悪い真似事はやめろと言われた。そう言ってカラ松兄さんは笑った。

 きっとカラ松兄さんは気づいている。それが一松兄さんの優しい嘘だって。一松兄さんの、カラ松兄さんに恋い焦がれて仕方がなかった一松兄さんの、嘘なんだって。でもカラ松兄さんはそれを受け入れた。ずず、と洟を啜る。

「一松兄さんのお墓参り行こうよ」

 カラ松兄さんは僕の言葉に少しだけ目を見開いてから、ゆらゆらと目に涙を浮かべて、小さく頷いた。
 ようやく今この瞬間にして、一松兄さんの自殺は完成した。残された僕たちの行く末は、神のみぞ知るところである。いい大人をした男が二人して泣く空間に、にゃあと一声、猫の鳴き声が響いた気がした。


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