カラ松が鏡の中に閉じ込められた。僕が鏡を覗くたびに困ったような、悲しそうな顔で僕を見るもんだからきまりが悪くなってしまって、少しでも鏡を見る機会を少なくさせたくて髪を梳かすことをやめてしまった。もともと寝癖をおざなりに直す程度ではあったが、そんな短時間であっても鏡の中のカラ松と視線を合わせたくなくて、僕はほとんど鏡のあるところ、つまり自宅の脱衣所にいる時間を削りに削って、とうとうよっぽどのことがない限りそこには行かないまでに行き着いた。潔癖気味のチョロ松兄さんとトド松が耐えかねない限り僕の頭はボサボサなままだ。

「一松、どうかしたの」

 僕の寝癖を直しながら、チョロ松兄さんが訊ねる。よほどひどい寝癖だったのか(今日が特別ひどい寝癖だったわけではなく、きっと今までの分が積み重なったためにここまでひどい有様になってしまっただけだろう)、僕の猫毛に悪戦苦闘するチョロ松兄さんの声音からはなんの情報も引き出せない。だから僕もなんでもない風に言った。「鏡の中にはカラ松がいるから」僕の頭を弄るチョロ松兄さんの手が止まる。「チョロ松兄さん?」「……そうなんだ」チョロ松兄さんが何事もなかったかのように再び髪を梳かし始めたから、僕もその話題はもう終わったのだろうと思って先ほどと同じように黙ってチョロ松兄さんの手を受け入れた。
「ねえ、一松」
 終わったことを知らせる、右肩を三度叩く合図をしながら、チョロ松兄さんは言った。
「カラ松は、どこに行っちゃったんだろうね」
 だから鏡の中だって。どこから持ってきたのかわからない手鏡を差し出されて恐る恐るそれを覗き込んでみると、やっぱりそこにいるのは反射する僕のあべこべの顔ではなく、きりりと太い、それでも今は困ったように、悲しげに下げられている眉を持ったカラ松がいるだけだった。ばちりと目が合ってしまったから、僕は慌てて瞼を擦り擦り手鏡をどけた。「どこに行っちゃったんだろう」何度も言わせないでよ。鏡の中に行っちゃったんだよカラ松は。

 チョロ松兄さんじゃあまともに取り合ってくれなかったから、僕はカラ松が鏡の中の住人ならぬ囚人になってしまったことをおそ松兄さんに告げた。結果は「へえ、そうなんだ」。以上。まだ夕飯のメニューを言ったときのほうが興味ありげな様子で、おそ松兄さんは漫画に下げた視線を上げることもなく僕の言葉を受け入れた。「普通はもっと驚かない?」猫を撫でながらそう言えば、おそ松兄さんはようやっと視線を漫画から上げ、ゆうらりと僕を視界に入れた。

「だって俺たちじゃあカラ松が見えねえもん」

 まじか。


 僕はみんなに鏡の中のカラ松が見えているもんだと思っていた。みんな分かっている上で、いると知っている上で何もしていないのかと思っていた。あいつは兄弟の中では一番スカンを食らう確率が高い。というかほとんどの言動を無視される。だから今回もそういった類のことだと思っていたのに、どうやら鏡の中にカラ松がいることを認識できているのは僕一人であるらしい。一番人間味のない十四松にその旨を伝えてみても、困ったように笑って「ごめんね一松兄さん、僕にもカラ松兄さんは見えないよ」と謝られてしまった。困ったような、悲しいような顔を弟にさせてしまったことが申し訳なくて、僕も同じように謝った。ごめんね十四松。そうか、カラ松は僕にしか見ることができないのか。そう思って少しだけ、あの次男に同情した。僕はてっきりみんながカラ松が鏡の中にはいることを知っていて、そして幾らか構ってやっていると思っていたのだ。だからこそ僕はあの視線から逃れるために鏡から徹底しすぎるほどに逃避してきたのだけれど、認識できる人間が僕しかいないという事実が明るみに出てきた今、じわじわと、まるで掌ですくった水が指と指の隙間から溢れていくように罪悪感と同情心が噴き出てきた。
 だから僕は一ヶ月振りにか鏡の前に自ら進んで躍り出てみた。そろりと鏡の中を覗けば、やっぱりカラ松が心配そうな、困ったような、悲しような目で僕を見つめている。「おい」鏡の中の二つ上の兄に声をかける。「お前、みんなから見えてないんだってな」カラ松は少しだけ寂しそうに眉を下げてから、仕方ないさというように笑った。声を出そうとしないところを見ると、どうやら鏡の国では声を出すことができないようである。今後おそらく何の役にも立つこともないであろう知識を一つ増やしてしまった。南無三。「喋れないんだね」僕の言葉に、またカラ松は悲しそうに笑った。カラ松に手を伸ばす。こつん、と鏡にあたって白い部分の伸びた爪がぐにゃりと歪んだ。「出てこれないの」カラ松がまた笑う。そっか、こいつ出られないんだ。僕とこいつの境界線を明確にさせる鏡に指を這わせながら、僕は言った。「じゃあ僕が話し相手になってあげる」カラ松がまた、悲しそうに笑った。

 それからの僕は今までのことが嘘のように鏡の前に立ち続けた。日がな一日鏡の前に立つ僕を兄弟たちは心配したり、気味悪がったりしたけれど、それでも僕は鏡の前からどくような真似はしなかった。食事もそこそこに、僕は鏡の前に立ち続けた。
「今日、お前の捜索願が出されたよ」
 さすがに一ヶ月もなんの音沙汰もないことに、呑気な両親も危機感を覚えたようで、昼間に警察に届け出を出していた。といっても成人を超えた大人、それも男ともなれば警察が本腰を上げて捜査に当たることはないだろう。当たったところで警察ごときにこいつを探し当てられるわけがない。だってこいつは、松野カラ松は鏡の中にいるんだから。鏡に指を這わせてみるも、爪が少し歪むだけでカラ松に触れることは叶わなかった。「いいな」僕がそう零すと、カラ松は不思議そうにその目をパチパチとまたたかせた。頬をくっつける。「だってそっちなら、僕も声が出なくなるじゃないか」そうすれば、誰も傷つけることなんてないのに。お前を傷つけることもなかったのに。言外にそんな意味を込めて項垂れれば、カラ松は寂しそうに笑って、僕を見つめた。「鏡の国に行くべきなのは僕なのに」力を入れすぎた爪がべきりと音を立てて剥がれる。爪がなくなった指で弄ぶように鏡をなぞれば、悲しそうな顔をしたカラ松がその行いを咎めるように掌を境界線に貼り付けた。それに倣って、もしかしたら触れられるかもしれないと思って、僕もぺったりと掌を鏡に貼り付けてみた。じんわりと冷たいそこに、生温い粘着性のある血液が這って気持ち悪い。「僕もそっちに行きたい」そう零せば、それはやめとけというようにカラ松は笑った。

「一松、ちょっと来い」

 あくる日、そんな命令口調で僕を呼んだのはおそ松兄さんだった。いつものような、あの悪戯っぽい勝気な笑みを浮かべて、まるで煙草にでも誘うように僕を手招きする。僕は鏡の中のカラ松とおそ松兄さんを見比べながら、仕方なく長男の誘いに乗ることにした。おそ松兄さんはそのまま二階に上がり、ベランダに僕を引っ張り出した。煙草でも誘うようにと表現したが、まさか本当にその通りだったとは。差し出された赤マルを一本、爪のない指で抜き取る。
「いったそー」
 そんな僕の指を見て、おそ松兄さんは笑った。自分の煙草の紫煙を吸い込み、にししと笑ってみせる。僕の銘柄も一応ポケットに入ってはいるのだけれど、勧められるままに赤マルに火を付けてしまった。少しだけからいその煙に眉を潜める。
 しばらくそうやって二人して無言のまま、紫煙を吸ったり吐いたりしていた。その沈黙を破ったのはおそ松兄さんだった。もう短くなってしまった煙草の火種を消すついでのように、おそ松兄さんは言った 。「カラ松の死体、見つけちった」

「……………………………………へえ」

 やっぱり日本の警察は無能だ。こんな素人に先を越されるなんて。紫煙を吐き出しながら視線をおそ松兄さんに向ける。静かに視線がかち合いその間を紫煙がゆらゆらと揺らめいていた。
「他に誰か知ってんの」
「いや、俺だけ」
 それは好都合。煙草の紫煙を吸い吸い、僕は笑った。「誰にも言わないでね」「言えるかよこんなこと」ひっでー有様だったぜ。おそ松兄さんはそう言って笑った。

「でもおそ松にいさんならそれを直せるんでしょう」

 おそ松兄さんにはそれが可能だ。人を生かすも殺すもどうするも、おそ松兄さんの一存で決定されてしまう。だってここはそういう世界だから。おそ松兄さんのおそ松兄さんによるおそ松兄さんのための作品だから。一番偉いのは赤塚先生でも何でもなく、おそ松兄さんただ一人。だから僕は安心してカラ松を殺せた。安心してカラ松の幻影を鏡の中には見ることができた。
 おそ松兄さんが新しい煙草に火を付ける。「まあた殺しちゃったのかあ、一松は」「うん」前の世界の、おそ松兄さんがリセットボタンを押す前の世界の記憶は朧げにしか残っていない。それもおそ松兄さんにとって都合の悪いことは全てデリートされる。だから僕は、前の世界で、前の世界でも松野カラ松を殺した松野一松のことを知らない。どうして殺したのか、どうやって殺したのか、僕は知らない。おそ松兄さんだけが知っている。
「バレちゃったならもういいや。やり直してよ、おそ松兄さん」
 もともと六つ子が一人欠けた時点で近いうちにリセットボタンは押される手筈だったのだ。だったら今やったって明日やったって変わらない。だから僕はおそ松兄さんに頼んだ。お願いした。「カラ松を生き返らせてよ、おそ松兄さん」次の世界では絶対に殺さない。絶対に傷つけない。絶対に大切にする。でもそんなことを言っている時点でフラグ乱立してるんだよなあ。
 おそ松兄さんが右手を上げる。指を鳴らす一歩手前で、おそ松兄さんが煙草を咥えながら僕に訊ねた。
 きっと前の世界の僕にも、その前の前の世界の僕にも投げかけた問いかけを、おそ松兄さんは僕に放った。
「どうしてカラ松を殺したんだよ」
 口端を歪めて視線をおそ松兄さんからガラス窓に移せば、そこに映り込んだ、いや、入り込んでいるカラ松と目があった。その顔に紫煙を吐き出し、僕は言った。

「カラ松が僕のことを好きにならないから」

 パチン、と肌と肌が摩擦する音がする。世界がリセットされる直前に見たカラ松の顔が笑っていたような気がした。苦く笑って、暗転。


title by へそ
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